開花期前後。

いまだ男尊女卑と冒険主義の残る中、

東洋の未開地域(西洋人はそう思っていた)を

旅行し、西洋に伝えた人物がいる。

そのうちの1人がイザベラ・バードである。

全部で2回のこの旅行記は

偏見には溢れているものの、

赤裸々な、

日本の江戸末期から明治初期を著している。

そう、未開の部族を偏見こみこみで赤裸々に。

ではその旅を追ってみよう。


  日光参り、


1878(明治11年)6月から9月にかけ

『日本奥地紀行』は執筆され、

1880(明治13年)に

"Unbeaten Tracks in Japan"

直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として

刊行された。


このタイトルだけでもバードの考えはわかる。

完全に未開文明の探検記録だ。


冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」と記し、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している[12]


実際バードは日光にも行ってるが、
この旅行記の重要なのはその途中である。
このため江戸後期から明治初期の民俗学では
一級史料(本人が現実に見たもの)となる。

栃木県壬生町から鹿沼市日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。

また、日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)(現在の金谷ホテル)には

その内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、

ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、

日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する[13]

日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と

日光に育まれた植生、コケシダ、木々の深緑と

鮮やかに咲く花々が中禅寺湖男体山華厳滝竜頭滝戦場ヶ原湯滝湯元湖を彩る様を闊達に描写し、絶賛している。街道の終点である湯元温泉にも大変な関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。

またその宿屋(やしま屋)の大変清潔である様を、

埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く[14]

626日からは、下野街道山王峠を越えて、

会津地方に入って南会津町川島に宿泊、

その後も下野街道を北上して大内宿に宿泊する。

ここから市川峠(市野峠)を北上、

高田宿を越えて坂下宿に泊まるが、

持病が悪化したせいか詳細は書かれていない。

坂下宿からは西進して束松峠をこえ野沢宿を通り車峠に2泊して新潟に向かっている。

山形県南陽市赤湯温泉湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した[15]


と、Wikipediaだけすごく素敵な日本紹介なのね!
とか思ってしまい、ポイントがズレる。
バードは教養人だがイギリス人であって、
日本人を未開文明と思ってることを忘れてはならない。


  イザベラバードの旅

居住地エディンバラを78年4月1日にたち、大西洋・北米大陸・太平洋を越え、5月20日に横浜に着いたバードは、12月19日に香港に向け横浜から離日するまでの7カ月を日本に滞在した。目的は、旅を通して本当の日本を知り、記録に残すこと。この目的はキリスト教普及の意義を念頭に置き、その可能性を探ることと結びついていた。旅はハリー・パークスが英国公使としての立場から企画立案した。バードは彼の依頼に真摯(しんし)に応え、使命感を糧に完遂した。日本での旅の記録は、全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』(※1)としてまとめられた。同書はこれまで言われていたような旅先から妹へ送った私信を集めたものでなく、半ば公的な報告書だった。



  東京〜粕壁宿(現在の春日部)

赤裸々に書くとこうなる。

日光、六月十三日──ここは日本の天国の一つである! 「日光を見ないで結構と言うな」という諺がある。
私は月曜日の午前十一時に公使館を出発し、午後五時に粕壁に着いた。
これらの車夫たちは、青い木綿の短い股引をはき、帯に煙草入れと煙管をさしこみ、袖の広いシャツは青い木綿で短く、胸のところを開けており、腰まで達していた。
上着は、いつもひらひらと後ろに流れ、竜や魚が念入りに入れ墨されている背中や胸をあらわに見せていた。入れ墨は最近禁止されたのであるが、装飾として好まれたばかりでなく、破れやすい着物の代用品でもあった。
下層階級の男性の多くは、非常に醜いやり方で髪を結う。頭の前部と上部を剃り、後ろと両側から長い髪を引きあげて結ぶ。油をつけて結び直し、短く切り、固い髭を前につき出し、もとどりの後部に沿って前方にまげてある。このちょん髷は短い粘土パイプによく似た形をしている。
やがて私たちは東京(エド)のはずれに来た。ここまで来ると、家並みはもはや続いてはいない。しかしその日は一日中、家と家との間隔はほとんどなかった。
これらの家の大半は路傍の茶屋で、売っているのはたいていお菓子、干魚、漬物、餅、干柿、雨笠、人馬の草鞄であった。
やがて私たちは東京(エド)のはずれに来た。ここまで来ると、家並みはもはや続いてはいない。しかしその日は一日中、家と家との間隔はほとんどなかった。
こんなことは書いてよいものかどうか分からないが、家々はみすぼらしく貧弱で、ごみごみして汚いものが多かった。悪臭が漂い、人々は醜く、汚らしく貧しい姿であったが、何かみな仕事にはげんでいた。

この言い方。

書いていいかわからないと言いつつ、

江戸ですらみすぼらしく貧弱で悪臭が立つ。

○ちゃんねるにはアホのネトウヨが多いので、

バードは朝鮮をけなして

日本をマンセーしてると思ってる。

全然違う。全て平等に価値がない。


何百人という男女の姿も、膝まで泥につかっていた。というのは、この関東平野は主として大きな水田地帯からなり、今が田植えの最盛期なのである。
今にも芽が出るばかりまで水に浸された後の穀物の種子(籾)が、小さい諸区画[苗床]に厚く蒔かれ、毎晩2、3インチの深さに水が入れられますが、日中は乾燥させておくのです。苗がうまく発芽したら、魚滓ないし、廃油をその上にかけて成長を促進させると、およそ50日で苗床は3インチの高さの苗で覆われます。
米は一般に、斜面を棚田状にしたものに植え付けられるので、濯漑は簡単に得ることが出来ますが、この平地では難しく、持ち運びできるようにうまく工夫された「踏み車」によって、主用水路から、高くなっている狭い水路に苦労して揚水されています。
米は一般に、斜面を棚田状にしたものに植え付けられるので、濯漑は簡単に得ることが出来ますが、この平地では難しく、持ち運びできるようにうまく工夫された「踏み車」によって、主用水路から、高くなっている狭い水路に苦労して揚水されています。
蓮の池もあった。そこでは、あの壮麗な花の蓮が、食用《!》というけしからぬ目的のために栽培されている。
外国人は、人を接待する日本の家のことを無差別に「茶屋」と呼ぶことはまちがいであることに注意したい。茶屋というのは、お茶や茶菓をとったり、それをいただく部屋を貸してもらったり、給仕をしてもらう家のことである。ある程度までホテルに相当するものは「宿屋」である。
許可証が違う。
床は地面より約一八インチ高くしてある。これらの茶屋には、しばしば畳を敷いた壇があり、その中央には、土間と呼ばれる引っこんだ場所がある。
私たちが路傍の茶屋で休んでいる間に、車夫たちは足を洗い、口をゆすぎ、御飯、漬物、塩魚、そして「ぞっとするほどいやなもののスープ」(味噌汁)の食事をとった。
私たちはよく人の往来する街道に沿って粕壁まで水田の間を一日中旅をした。粕壁はかなりの大きさの町ではあるが、みじめな様子をしている。その大通りも、東京の最も貧弱な街路に似ている。
この家の二階正面は、一つの長い部屋で、横と正面しかないが、不透明の壁紙が貼ってある襖を敷居の溝にはめれば、直ちに四つの部屋に分けることができる。背面も即席で作られる。
しかしこれは、私たちのティツシューペーパーに似た半透明の紙を貼った障子で、ところどころに穴や裂け目があった。
部屋には、かぎ、棚、手摺など何か物をかけるものが、一つとしてなかった。部屋は要するに空っぽで、畳(マット)しか敷いてなかった。
マットという言葉を使ったが、誤解されると困る。日本の家のマットは、タタミと呼ばれて、最もりっぱなアックスミンスター絨毯と同じほど、清潔で優雅で柔らかい、床の敷物である。
寺院や部屋はふつう、その中にある畳の数によって大きさが測られる。部屋に合わせて畳を裁断するのではないから、畳数に合わせて部屋を作らねばならない。
畳は柔らかで弾力性があり、質の良いものはとても美しい。畳は最上のブラッセル絨毯ほど高価であり、日本人は畳を非常に誇りにしている。
だから心ない外人たちが汚れた靴で畳の上に踏みこむようなことがあればたいそう困ってしまうのである。
不幸なことだが、畳には無数の蚤がついている。
伊藤は、このときだけ私の指示を受けて、徽臭い緑色の麻の粗布で作った大きな蚊帳の下に私の携帯用ベッドを広げ、私の浴槽にお湯を満たし、お茶や御飯や卵をもってきたり、私の旅券を宿の亭主のところに持っていって写させた。それが終わると、どこか知らぬところに去った。
手紙を書こうとするのだが、蚤や蚊がうるさかった。その上さらに、しばしば襖が音もなく開けられて、幾人かの黒く細長い眼が、隙間から私をじっと覗いた。というのは、右隣の部屋には日本人の家族が二組、左隣の部屋には五人いたからである。
私は、障子と呼ばれる半透明の紙の窓を閉めてベッドに入った。しかし、私的生活の欠如は恐ろしいほどで、私は、今もって、錠や壁やドアがなくても気持ちよく休めるほど他人を信用することができない。
隣人たちの眼は、絶えず私の部屋の側面につけてあった。一人の少女は、部屋と廊下の間の障子を二度も開けた。一人の男が──後で、按摩をやっている盲目の人だと分かったのだが──入ってきて、何やら《もちろん》わけの分からぬ言葉を言った。その新しい雑音は、まったく私を当惑させるものであった。
片方ではかん高い音調で仏の祈りを唱える男があり、他方ではサミセン《一種のギター》を奏でる少女がいた。家中がおしゃべりの音、ばちゃばちゃという水の音で、外ではドンドンと太鼓の音がしていた。
街頭からは、無数の叫び声が聞こえ、盲目の按摩の笛を吹く音、日本の夜の町をかならず巡回している夜番の、よく響き渡る拍子木の音がした。これは警戒のしるしとして二つの拍子木を叩くもので、聞くにたえないものだった。
私のお金はその辺にころがっていたから、襖から手をそっとすべりこませて、そのお金を盗んでしまうことほど容易なことはないように思われた。井戸はひどく汚れているし、ひどい悪臭だ、と伊藤が私に言った。盗難ばかりでなく、病気まで心配せねばならない! 私はそんなことをわけもなく考えていた。(*)
私の心配は、女性の一人旅としては、まったく当然のことではあったが、実際は、少しも正当な理由がなかった。私はそれから奥地や北海道(エゾ)を一二〇〇マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。
私のベッドは、二本の横木に釘づけした一片の麻の粗布にすぎない。私が横になると、その粗布は下方の釘の列から裂け目を作りながら破れてしまい、だんだん身体が沈んで、ついには二組の架台を結びつけている棒の鋭い背中に横たわって、蚤や蚊の犠牲者となり、全くお手あげの状態となった。私は三時間の間、身動きもせずにじっと横になっていた。動けばベッドが全部崩れてしまう、と思ったからである。
そのとき障子の外の伊藤が声をかけた。「バードさん、お目にかかってお話ししたいことがあります」。こんどはどんな恐怖だろうか、と私は思った。
彼はつけ加えて「公使館から使いの者が来ました。それから二名の警官があなたにお話ししたいそうです」と言ったが、私の不安はおさまらなかった。
私は到着したときに正しい手続きをとっていた。宿の亭主に旅券を渡し、彼は規則に従ってそれを宿帳に書き写し、その写しを警察署に送ったはずであった。だから、このように真夜中近くになって部屋に侵入されることは、不当であると同時に理解しがたいものであった。 
それにもかかわらず、制服を着た二人の警官が現われたとき、すぐに私はほっとした。
というのは、彼らの出現によって、私の名が登録されて彼らに知られているという事実を確認できたからである。それから日本政府も、特別な理由により、外国人に政府の全知全能ぶりを印象づけたいと思っているから、私の安全に対して責任があるのである。
彼らが彼らの暗いランプの光で私の旅券を書き写す間に、私が東京からの小包みを開けると、中にレモン砂糖漬一缶、サー・ハリー・パークスからのたいそう親切な手紙、それからあなた(妹)からの手紙一束が入っていた。
今では私は、そのときの恐怖や不幸なことを笑いとばすことができる。旅行者というものは、自分の経験を贖わなければなら

ない。成功するのも失敗するのも、主として個人的特性によるものである。多くの問題も、旅を重ねるにつれて経験を積むことにより改善されるであろう。そして安心して旅行をする習慣が身につくことであろう。
しかし私的生活(プライバシー)の欠如、悪臭、蚤や蚊に苦しめられることは、これから先も直らない弊害ではないかと思われる。
以上、底本はこの二冊、
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 

高畑美代子イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺

中央公論事業出版 


引用はこちらから。

と、

このように明治初期=江戸末期における、

関東地方が泥とノミに塗れており、

バードは辛辣な批判を交えつつ、

偏見混じりで見てきたものをかいた。

文化人類学的、歴史的価値はあるが、

これ読んでもって読みたいと思うなら続けるが

それはイイネ次第である。


©️お受験のお医者さん