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何事においても「わからない」と言いたくない。
調べればすぐにわかる環境に慣れきっていて、わからないことをそのままにしておけない気性のわたしには、「秘事」は少しむずがゆい物語だった。
「秘事」は高貴な夫婦の結婚生活の物語だ。
三村清太郎・麻子は昭和11年生まれの同い年夫婦。大学で知り合い、卒業後は偶然にも同じ会社に勤めることになっていた。清太郎にとって麻子が同じ会社に勤めることは都合が悪く、麻子と付き合いながら求婚と就職辞退をどう伝えようか逡巡していたが、麻子の身に「三村にとって生涯忘れることのできない事態」(20頁)が起こり、麻子は入社を辞退し、清太郎と結婚する。
その「事態」とは、麻子の不慮の事故だった。麻子は清太郎とのデートの日に交通事故に逢い、顔に大怪我をしてしまう。麻子は採用の時にお世話してくれた社員に顔向け出来ないという「あいしゃせいしん」から入社を辞退したのだった。
結果として清太郎に都合の良い状況になったが、麻子の顔の傷に複雑な気持ちになる。
会社人生が消えてしまったこと、顔の傷のことを麻子はどう思っているのか気になりながらも、清太郎は聞かず、麻子も言い出すことはない。
時は経ち、清太郎は順調に昇進し送迎車が付くまでの重役になった。会社の都合でシドニー、ロンドン、ニューヨーク、東京と転勤を重ねる清太郎に麻子は文句一つ言わず付き添い、太郎と次郎という息子二人を立派に育て上げた。
清太郎と麻子は息子たちから揶揄されるほどのおしどり夫婦だった。清太郎は麻子を気にかけ、麻子は清太郎の厚意を素直に受け取り、夫を立てることも忘れない。
裕福な暮らし、順調な会社人生、良好な夫婦・親子関係…。どれをとっても非の打ち所がない順風満帆な人生に見える。それでもときおり事故のことが清太郎の頭をよぎり、清太郎は麻子への愛を自問自答するのだった。
「三村はこれまで深く考えたことはなかったけれども、世の夫たちのなかで自分ほど妻にその種の注意を与えてきた者はいないだろう、とも思った。(中略)
そのように麻子にむやみに注意を与えながらも、だが三村は〈怪我せぬように〉とか〈怪我するなよ〉とか〈怪我〉という言葉は決して口にはしなかったのである。(中略)
そうして、三村の気持ちをそこまで察していなくても、麻子には彼の注意の言葉に自分の起こしたあの事故が影響していることが分らぬことはなかっただろう。だからこそ、彼女は〈はい〉と答え、〈ええ、ありがとう〉と言いもしたのだろう。彼女が気持のええ奴であるためばかりではなかったのだ。」
(111頁)
この物語の「秘事」は清太郎と麻子の本音だ。
清太郎はついに本音を言うことなく、そして麻子の本音を聞くことなく、夫婦生活は麻子の病死によって幕を降ろすことになる。
「ーー僕はあんたとひたすら結婚したくて結婚したんだぞ。侠気(おとこぎ)や責任感、そんなものはみじんもなかったんだ。それ、あんたに言うてやりたかった。だが、言うてやれなかった。これまで決して言わなかった。ーー彼は自分の臨終で言い遺してやるつもりだった、その言葉を無言で彼女に告げ続けた。」
(329頁)
どちらも本音を明かさぬまま、麻子が亡くなったことで「秘事」は完成したのだった…。
読み終わった時に、なんて清らかで尊いふたりなのかと感嘆した。
わからないままでいるということは、相手への絶対的な信頼と信じる気位の高さがないと出来ない。行動の結果がすべてと言わんばかりに清太郎は浮ついた話もなく麻子と添い遂げたのである。
「ね、岸さん。今日は傘は要らぬな、と言うのは、今くらいには曇っている時でしょう。上天気の日に、傘は要らぬとはわざわざ言いませんわね。それと同じ。義侠心や責任を感じて結婚したのではないと言った途端に、僕の本当の気持はそのままには伝わらなくなってしまう。」(272頁)
清太郎は自身の本音をこうも言う。尊いと思う一方で、「秘事」があったから良好な夫婦関係が成り立っていたと思えば、わからないことをわざわざ明かす必要なんてないのかもしれない。そして、お互いの気持ちがなんとなくわかるからこそ「秘事」を明かさないまま共有することで愛を深めていったのかもしれない。
夫婦って、こういうもの?独身のわたしにはよくわからない。
「わからない」ことに人生の妙味があるのだと教えてもらったような気がした。
いまはしばらく、「わからない」ままでいようと思う。

