昨日?、"阿久根" "豊根村" が何の前触れもなく、頭に言葉が浮かんだ。

昨年末から、言葉が下りくる そんな事象が起きていたんだ。


因みに、耳鳴りの事とか後出しとか思われても私は構わない。


あと、全く話が逸れますが昼間 急に 阿久根 豊根村 が、頭に下りてきました。
豊根村は地理から分かりますが、阿久根は初めての地名。
因みに、豊根村では旧暦の11月に 花祭り が行われるのを、先程調べて知りました。

東京の急激な気温低下。
勿論、気象からですがそれだけではないような気が、個人的にはします。
耳鳴りは、私も感知しております。

2025/10/22 19:07
ある方にコメントをしていた内容


仮に、豊根村付近が揺れたら やはり、下りてくる言葉に意味はある。

(10.23 03:59 熊本県天草•芦北地方

 10.23 13:33 鹿児島県薩摩地方

→揺れていた震源地から阿久根市はどちらも近い)







偶然と言われれば、偶然だよ。

否定はしない。





(左)「花祭」開催日程:11月第4土曜日、1月2日から4日 赤鬼が舞っている写真(中央)「念仏踊り」開催日程:8月16日 中央に太鼓が置かれ、その周りを踊ってる写真(右)「御神楽まつり」開催日程:1月3日 赤鬼が舞っている写真

花祭

「花祭り」とは?

赤い衣装に鬼の面を付け、大きな釜を据えて湯を沸かした湯釜に向かって鉞を向けて舞っている写真

榊鬼(上黒川)

愛知県奥三河地方に伝わる民俗芸能です。
日本で最初に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

人間の魂や身体が最も衰える霜月(旧暦11月)の時季に、神仏を舞庭と呼ばれる祭場に招き降ろし、村人が神仏と交遊して新しい自己に生まれかわる再生の祭りです。
子どもたちが愛らしく舞う「花の舞」、巨大な仮面の鬼が鉞をかざして舞う「山見鬼」「榊鬼」など、さまざまな舞が夜を徹して舞われます。
豊根村では、坂宇場(さかうば)、下黒川(しもくろかわ)、上黒川(かみくろかわ)で行われています。

現在、花祭りが行われている東栄町・設楽町・豊根村と愛知県は、花祭りの国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界無形文化遺産登録を目指しています。

「花祭り」はいつからあるの?

赤い衣装を着て、鬼の面を付け鉞と女性のたいまつがぶつかり合い火花が散ってる写真

榊鬼(坂宇場)

現在のような形で行われるようになったのは江戸時代初期、寛永から寛文(1624年~1672年)のころですが、それまでには長い歴史がありました。
平安後期から室町時代にかけて、豊根村を流れる大入川が流れこむ天龍川は、熊野三山から諏訪大社へと行き来する修験者たちの修行路でした。
修験たちは行き来する天龍川流域の村々にさまざまな修験道の行事を伝えましたが、中心は村人たちの穢れを祓い、災いを除く「湯立」でした。三遠南信地域の霜月神楽が今も「湯立」を中心にしているのはこのためです。

大きな釜を据えて湯を沸かす湯釜を中心に、黒の衣装を着た男の人3人が藁を束ねて作ったタワシで釜の湯を振り掛けている写真

湯囃子(上黒川)

熊野修験道はその後、承久の変などによって衰退し、熊野三山を落去した多くの修験たちが全国の各地に土着しましたが、戦国から安土・桃山時代、豊根村の曽川・山内などにもこうした修験者が土着しました。
山内村の榊原若太夫や林宮之大夫、明星法印などが初期の修験と思われます。豊根村に土着した修験たちは、修験道の教義(教え)を村人たちに理解してもらうため、湯立の祭儀を土台に、当時都で流行していた芸能を採り入れて大神楽を創出しました。

大神楽は数十年に一度、数ケ村が合同の神楽組を組織して行う三夜三日の本祭を中心に、前後30日にもおよぶ大規模な祭事で、「金百両、米百俵」が必要といわれました。
このため徳川時代に入ると、多大な出費を要する大神楽の開催には代官所の許可が必要となり、執行が困難になりました。
この危機に在村の修験者たち(万蔵院の父・福寿院ら6名)は、大神楽を臨時祭とし、例年には大神楽を再編して一日一夜の花神楽を創り出しました。
これが現行の花祭りです。

湯立を中心にした祭事 ⇒ 大神楽 ⇒ 花神楽(花祭り) と推移した祭りはその後、在地最後の修験・林蔵院らの活躍する元文から明和年間(1736年~1771年)に最後の拡張期をむかえ、各村に勧請されてほぼ今日の花祭り圏が確立しました。

「花祭り」は何のためにするの?

大きな釜を据えて湯を沸かした湯釜の周りを、赤鬼が鉞を振り上げて舞っている写真

山見鬼(下黒川)

豊根村に土着した修験者たちが、花祭りの原形である大神楽を創出した目的は、修験道の教義を村人たちに理解してもらうことでした。
修験道の教義は、人々の災いは人の犯した罪汚れによって起こるとされ、罪汚れを払い新しい自己となること(生成・再生)を説くものでした。
そのため大神楽では、村の子が神の子として誕生し、無事に成人する〔生れ清まり〕(生成)の儀礼と、60歳をむかえた神子が、仮に死んで彼の世である白山に籠り、生まれかわって此の世に誕生する〔浄土入り〕(再生)の儀礼が、数々の芸能を交えて行われました。
修験者たちは当時都で流行していた歌謡(うたぐら)・舞・能(禰宜・巫女・翁・鬼)といった芸能を大神楽に採り入れ、村人たちに修験道の教義である、生成・再生をわかりやすく演じて見せたのです。

獅子が白い布を噛んでる写真

獅子(下黒川)

その後、大神楽が短縮された形の花祭りが誕生すると、大神楽の中心祭事であった〔生れ清まり〕(生成)、〔浄土入り〕(再生)の儀礼は削除され、祭りの目的は解り難くなりましたが、舞庭に呼び降した神仏と村人とが交遊する〔神遊び〕をとおして、この祭りの目的が生成・再生にあることが強調されました。

神仏と村人たちが交遊する〔神遊び〕の主体は、舞庭で舞われる数々の舞にありますが、花祭りの舞庭には舞台はありません。
舞を舞う舞手も村人と同じ位置で、同じ空間で舞を舞います。
舞手たちは舞庭に降臨した神仏が依り付いた神仏です。
村人たちは、神仏の顕現した舞手と共に舞うことで神仏と交遊し、神仏から穢れを祓われ清められ、新しい生命力を授かるのです。

また鉞を振るって舞う鬼と共に舞う村人たちも、鬼の強力なパワーを授けられ、強力な身体と魂を得て生まれかわる、生成・再生を体感するのです。

花祭りは村人が神仏の憑依した舞手や、強力な鬼と共に舞うことによって、新しい自己への生まれかわりを体感する再生の祭りです。

「花祭り」の見どころは?

青年二人の舞で、剣などの採り物を持ち向かい合って舞ってる写真

地固の舞(坂宇場)

花祭りは見る祭り、見せる祭りではありません。
花祭りに舞台がないことがそのことをよく表しています。

花祭りは、神仏を舞庭に招き降ろす〔神招ぎ〕の次第と、舞庭に勧請した神仏と村人が交遊する〔神遊び〕・〔演能〕の次第、最後に招き降ろした神仏を送り返す〔神返し〕の次第で構成されています。

  1. 神招ぎ(しめおろし・島祭り・高根祭り・神迎えなど)
  2. 神遊び(舞・仮面の舞・湯立てなど)
  3. 演能 (禰宜・巫女・翁など)
  4. 神返し(ひいなおろし・神返し・外道祓いなど)
白い衣装を着た3人が扇を持ち舞っている写真

三つ舞(坂宇場)

祭りの中心〔神遊び〕の主体は舞ですが、舞は舞庭に降臨した神仏と村人とが交遊することが目的です。
全ての舞が舞庭という、湯釜を中心にした土間で舞われますが、舞庭は舞手と村人とが共有する空間です。
そのため舞庭には舞手と村人を隔てる舞台などはなく、舞手と村人が一緒になって舞います。ですから花祭りの舞は、芸能としての舞ではなく、舞手に神仏が依り付くことに力点がおかれています。
回って回りかえす同じ所作を何度も何度も繰り返し、繰り返して無我無心になった舞手に神仏が依り付くのです。

青少年の舞、鬼の舞、舞手たちは降臨した神仏が依り付いた神仏です。
村人たちは、神仏の顕現した舞手や鬼と共に舞うことで神仏と交遊し、神仏から穢れを祓われて、新しい生命力を授かるのです。
花祭りの特色はこうした人と神仏との共演、交遊にあります。日本の祭りの多くは見る祭り、見せる祭りですが、花祭りは祭りに参加し、神仏と共に舞うことで新たな生命力が授けられる全員参加の祭りです。

あなたも花祭りで「新しいあなたに」生まれかわってみませんか。

「花祭り」の「花」とは?

3人の子供が、赤い帽子のような被りものを着け、手に扇を持ち舞っている写真

花の舞(下黒川)

花祭りが創始された下黒川、山内の花祭りには、その原形であった大神楽「白山入り」の祭事を伝えた「花育て」という次第が残されていました。
「花育て」では、白山入りの時に祭文「花の惣門」が唱えられますが、その祭文では白山を花の山にたとえています。
白山は彼の世で、還暦を迎えた神子が仮に死んで一夜をここで過ごし、地獄の苦しみを体験して懺悔し、生まれかわって此の世である舞庭に誕生するための山でした。
こうしたことから白山を花の山とするのは、生まれかわるための山、再生される山であったからと考えられます。
花祭りの「花」は四季折々に咲きかわる花のように、新しい生命の「再生」を意味した言葉と考えられます。

ちなみに「花祭り」の呼称は、民俗学の黎明期、花祭りを世に紹介した早川孝太郎や折口信夫などの研究者によってつけられたものでした。
それまでは花神楽といわれ、一般的には「はな」と呼ばれ親しまれてきました。

「花祭り」には故郷へ帰ろう!

大きな釜を据えて湯を沸かす湯釜を中心に、藁を束ねて作ったタワシ(湯たぶさ)を持って舞い、釜の湯を振り掛けている写真

湯ばやし(下黒川)

かつて豊根村では8ヶ所で花祭りが行われていましたが、現在は3ヶ所にまで減少してしまいました。
佐久間ダム、新豊根ダム建設の犠牲となって廃絶した分地や曽川の花祭り、過疎化によって中絶した大立の花祭り、小規模高齢化によって中絶した間黒や山内の花祭り。
青少年の祭りと早川孝太郎が称した花祭りは、舞手の中心となる若者の減少によって中絶の危機にありますが、それでも故郷・豊根村の人たちは次代のために頑張って花祭りをつづけています。

豊根村を離れて暮らす皆さん、花祭りには故郷に帰って祭りに参加してください。
皆さんは花祭りの唯一の継承者です。

花祭りには故郷に帰って祭りに参加し、故郷・豊根を盛り上げましょう。

解説:豊根村文化財審議会委員 山崎一司