
被爆ポンプと広電電車 / 猿猴橋町
| 1925☆☆☆昭和100年記念☆☆☆2025 |
| 1945☆☆☆戦後80周年記念☆☆☆2025 |
しかし都市整備や再開発の名前の下、21世紀になって急速に数を減らし、その存在は貴重なものとなりつつあります。
大がかりな建物や橋梁などは、被爆遺産として保全活動や補助金の対象となっていますが、手押しポンプのような生活密着の道具は。
広島市は、保護や保存の対象としていません。

1945(昭和20)年の俯瞰写真ですが、前々代の被爆駅ビルそして被爆電車と、これは猿猴橋町での写真です。
小さいので他の白文字とは区別して、赤文字で記入しておますが、確かに手押しポンプが1基ですが、映り込んでいます。
続いては広島駅前から望遠レンズにて、猿猴橋町電停を撮影した際に、画面左側の駐車禁止の標識と、信号機の電柱の間に、手押しポンプを入れて撮れました。
小さい物なので、偶然写った80年前の写真と、私が苦労して写した手押しポンプと、町中の風景の一部としては、なかなかな難しい素材です。


それ故に、資料として町中の手押しポンプとしては、その存在を確認しづらいものであり、本当に被爆した手押しポンプなのかどうか、確認が困難であることは間違いありません。
施設地図などが存在しているため、そこに地下水汲み上げのための井戸があることは、間違いなく確認できるのですけれど。
昭和20年~30年代に、破損して交換された記録は残っていないので、交換されたものと被爆したものの、その区別はできない状況にあります。
呼称は一般的にその区別なく、全て被爆ポンプと呼ばれ、新聞で取り扱われる際も、観光案内でも被爆ポンプと書かれます。



この猿猴橋町界隈の手押しポンプも、一般に被爆ポンプと呼ばれ、かつては電車通りの両サイドに、数メートル毎に存在していましたが。
猿猴川側の歩道は、電線等の地下化工事や駅前再開発の2006年から全て撤去され、広島駅前にあった物も、2014年にその時の再開発工事で撤去されました。
この被爆ポンプたちのの内、状況確認からのみの推測で、津田式ポンプは戦前からあった物である確率が高く、川本製作所の物は戦後に交換されたものと•••••••。
かつて毛利家が総鎮守として厚い信仰を寄せていた、廣瀬市伎島大明神 = 広瀬神社のすぐ隣へ、1921(大正9)年に創業した津田式ポンプ製作所がありました。



津田式ポンプは創業者の津田喜次郎氏が考案した手押しポンプで、その簡易な構造と使いやすさから、瞬く間に日本全国へ波及しました。
1動作で排出される水の量はちょうど1リットルで、力も必要なく子どもでも水を難なく汲み上げることができました。
また、川本製作所のポンプも1919(大正8)年に創業しており、軍都であった広島の上下水道の整備と相まって、数を調達するために比較的早く広島へ、納品されていた可能性もあります。
ただ、ドラゴンポンプの品名は1955(昭和30)年に新発売された、改良型新式手押しポンプなので、被爆ポンプかどうかだけを考察するなら、戦後の生まれであることは間違いありません。

空爆や原爆で傷つき、毎日酷使された被爆ポンプたちは、老朽化で次々に壊れて行くものの、1970(昭和45)年に津田式ポンプ製作所は倒産してしまいます。
水を飲むことによって命を失った人、水を飲んだことで命が助かった人、そんな犠牲者の蠢きの街も、やがて復興へ向けての歩みは始まりました。
舗装されていない道路へ、砂埃を防ぐために新たな地下水汲み上げの井戸も掘られ 、被爆していない手押しポンプも設置されました。



線路沿いのこの3基は、住民による聞き取りから、間違いなく被爆ポンプのようですが、戦前そして戦時中、被爆直後から戦後へと。
そこから21世紀となるこれまで、路面電車と共に時代の移り変わりを見てきた被爆ポンプですが、間もなく電車の走る姿を見ることは無くなります。
猿猴橋町ルートの廃線後には、この周辺の都市整備も控えており、被爆ポンプたちが最後に見るものは•••••••。
113年間そこへあった、撤去されるレールの姿と、取り壊される自分の姿になるのかも知れません。
我が家の絶対ルール。
冷蔵庫のドアは必ず閉めるっ!
憲法改正をする方法は国会で賛成議席を取ること以外に、クーデターでの憲法停止があります。
冷蔵庫停止に陥ったら、我が家の食品は全てパーとなるので、いつも優しくドアを確実に•••••••,早く閉めましょう~♪





















