東武野田線というのは1923年に船橋市から柏市までが北総鉄道として工事に着手していて、12月に船橋線として開業しています。

 そして、この工事の敷設に拘ったのが朝鮮から出稼ぎに来られていた土工さんの家族で船橋市の塚田に労務宿舎があったのです。そして、地図を見ても分かるように、現在の県立行田公園とはすぐ、近くです。ちなみに、朝鮮半島はすでに日本が侵略していましたから、日本のインフラ目的に連れて来られたのかもしれません。後の大戦においても中国人の人たちも強制連行されて、北海道などで鉄道工事に強制労働させらて、人柱までしたとされていますから。

 

 そして、9月に関東大震災が発生すると必然的に流言卑語のデマが発生し、朝鮮人が「井戸に毒薬を投入した」だとか、「石油で火を付けた」だとか、「暴動を起こした」だとかを船橋無線所から発信したのです。それと、同時に船橋市でも自警団が組織され、無線所が危ないから海軍の送信所長が自警団に武器を渡して警戒をしていたのですが、それが虐殺の引き金ともなったのでしょう。その自警団が最初に目を付けたのが、塚田にあった宿舎の朝鮮の土工さんの家族だったのです。そして、警察署に連行する途中の本町にある天沼公園の中や近辺でいきなり竹槍や日本刀、とび口などで惨殺したり、当時の天沼公園は沼もありましたから投げ込んだのです。当然、連行中には手は縛っていましたから、逃げようもできず、その場で38人の朝鮮の人が犠牲になっているのです。中には当然、子どもさんもいて、「アイゴー」と悲痛な言葉を残し殺されてもいたと「九月、東京の路上で」にも書かれています。従って、野田市での行商人への虐殺も必然的に起きたと言っても過言では無いでしょう。引き金は「海軍船橋無線電信所」も一役買ったということになるでしょう。

https://core.ac.uk/download/pdf/223197459.pdf

 

 県内最大の虐殺とも指摘されています。

 

(下の画像は本町7丁目にある現在の天沼弁天池公園でこの場所は、嘗て「弁天池」という池があり周辺は沼地のような湿地帯だったが、昭和40年頃に埋め立てられ、「天沼弁天池公園」として整備されています。)

 

 さて、前回も書きましたが、海軍船橋送信所は現在、県立行田公園に中に記念碑がありますが、一切、朝鮮の人たちが殺されたことには触れていないどころか、「船橋市民に親しまれていた(いる)」などと、して、まるで、虐殺の史実を封印しているのです。

 

2023年6月19日

船橋市海神:弓場清孝