昨日は日曜日でしたので、広島県神石高原町小畠にある「志麻利」に電話しました。すると館長さんでもある、重松文宏さんが直のお出になり私の広島原爆が投下された1945年8月6日の可部線の運行状況についての質問に応えていただきました。
前回も書きましたが井伏鱒二氏の「黒い雨」にも資料としての「重松日記」の両方に重松夫妻と姪の高丸安子(矢須子)さんたち3人が避難のために可部線の山本駅から古市に向かって乗車され、車内の様子を書かれているのですが、しかし、当時、可部線の山本駅はすでに存在していなかったのです。安芸山本駅は1943年10月1日を以って駅の運営を中止していたのです。
これについて、重松文宏氏は驚かれ「初めて知った」とお礼を言われました。しかし、公文でもある、重松しげ子さんの被ばく寄稿文には確かに「古市に着く道路に、息絶え絶えの人が続いて耳元に『誰誰は元気なから(だから)心配するな』というような事を言っておられるのを見たり聞いたりしながら歩く。本当に残刻な悲惨な有り様は、口にも筆にも表現する事が出来ない。思い起こせば身震いするような恐ろしい核戦争は、二度と再び繰り返すことのないように、世界の恒久平和を願ってやまない。」と記されている以上、古市まで、全行程にわたって3人で歩かれたのか、それとも臨時の列車を運行されたかも知れないと思い、昨日、JR西日本に1945年8月6日の可部線の運行について問い合わせをしています。回答には日数がかかるからしばらく待つようにとメールが届いています。
2022年8月29日
船橋市海神:弓場清孝

