昨日から「重松日記」と神石郡原爆被害者協議会が発行された「ピカドン・被爆の軌跡」の中で「重松しずこ」さんが寄稿された文章のすり合わせをしていますが、「重松日記」の方には「黒い雨」の記述はありませんが、「重松しず子」さんの寄稿文には「御幸橋を渡って専売局前で一寸休んだ。その時は、雀の飛び立つほどの元気もないのでぼんやり空を見上げ「敵は何を使ったのだろうか」と話しあった。空は湯の煮えかえる様な雲の動きで、まもなく火事になり雷がなり大雨になったので、千田町の方から中心地に向かっ行った。私たちは、姪の安否を気遣って宇品に行った。宇品でも窓ガラスが壊され社長さんは背中を怪我しておられた。社長さんの温かい御心遣いで、昼食をいただき、姪を連れて三人で避難先の古市へと歩きだした。...」

下が夫の「重松静馬」氏が書かれた「重松日記」の内容箇所ですが、「しげ子」さんが書かれた「専売局前で一寸休んだ。.....」の件が書かれてありません。

 専売局とは、日本専売公社の広島工場の事で当時は広島市南区皆実町2丁目にあったようですから、ここから雨(黒い雨)が降る中で京橋川沿いを宇品方向に歩かれたと思われます。ちなみに姪の矢須子(安子)さんがおられたとされているのが宇品五丁目(六丁目)にある日本通運倉庫です。そこで、昼食を取り三人で千田町の焼けた自宅に戻り、その足で避難先の古市に向かわれたと考えられるのですが、矢須子(安子)さんは果たして「黒い雨」に接しておられないのでしょうか?下に大瀧雨域も貼っておきますのでお考え下さい。

続く

2022年8月24日

船橋市海神:弓場清孝