何年も井伏鱒二の「黒い雨」について書いていますが、この「黒い雨」という作品は広島原爆をどのように捉えるか、実相がどこまで正しいのかは、読み手によって変わるでしょう。しかし、事実は事実として、戦争の最後の手段として日本で核兵器が使用され、これが人体実験にも活用されたのであれば、年月を問わずして検証するべきではないでしょうか。

 そして、井伏鱒二の「黒い雨」は多くの批判にもさらされ続けていますが、原爆文学の中においての実相は十分に評価しうる内容であると私は考えています。

 作品の中では主人公の矢須子は事実上の人物で本名は「高丸安子」さんです。安子さんは叔父さんの実家に帰郷後、深安郡山野の農家に嫁がれ、原爆病の発症にも関らず、お二人の子どもさんに恵まれましたが、35歳で死去されています。彼女の叔父さんの本名は重松静馬さんで、横川駅で被爆され1980年10月に亡くなっておられます。横川駅での被爆状況は顔面を主に火傷されていますが、亡くなられた主な原因は肺疾患とも言われています。

 さて、原爆投下時の安子(矢須子)さんの行動ですが「黒い雨」(新潮社文庫)の15頁に本人の日記が記されています。

 

 「八月六日 朝五時半、能島さんのトラックが来て、疎開荷物を運ぶ。古江町で閃光と轟音。広島市街に噴火のような黒煙。帰りは草津町に出て船で御幸橋下へ着岸。おばさんは無事、おじさんは顔に怪我。世紀的な大惨事である。しかし、全貌はよくわからない。家が十五度くらい傾いているので防空壕の入り口でこの日記を書く」

 確かに安子さんの8月6日の日記には行動そのものは実相であることは間違いないのだが、「黒い雨」について最初の部分に記述が無いのは、この日記を婚約の時に仲人に送るために、あえて「黒い雨」については記述しなかったとも考えられる。

 原爆投下時の「黒い雨」の降雨時間は、原爆投下時より20分後から3時間後、あるいは5時間の地域もあったといわれてもいる。

 そして、安子(矢須子)さんの8月6日の日記には続けて、37頁から38頁に、このように書かれてあり、この部分が批判されているのです。

 「能島さんの誘導で闇船に乗り込んで、もうそのときには黒い雨の夕立が来ていたことを思い出した。午前10時ころではなかったかと思う。雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降ってくるのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった。真夏だというのに、ぞくぞくするほど寒かった。雨はすぐ止んだ。私は放心状態になっていたらしい。夕立が降りだしたのはトラックに乗っていたときからではなかったと思ったりもした。私の知覚はずいぶん性能が下落していたに違いない。黒い夕立は私の知覚をはぐらかすように、さっと来て、さっと去った。だまされたような雨であった。

 私は泉水の水で手を洗ったが、石鹸をつけて擦っても汚れが落ちなかった。皮膚にぴったり着いている。わけが分らない。......(抜粋)...私は何度も泉水のほとりに行って洗ったが黒い雨のしみは消えなかった。染色剤としてみれば大したものである....(中略)...これで矢須子の一日分の記録が終わりになっている。家内の云う通り、黒い雨に打たれた記述の部分は省略するに越したことはない。しかし、省略して清書した日記を結婚の世話人に渡してから、もし、矢須子の日記の現物を見せてくれと云いだされるとすればどんなことになるだろう。どうしたものか、これについては考えを保留して置きたいものである。

 爆弾の落ちた八月六日の午前八時過ぎ、矢須子は爆心地から十キロ以上も離れたところにいた筈だ。...」ここまでの文章をどのように考えるかかも重要でしょう。

 

 安子(矢須子)さんは原爆投下後に「....草津町に出て船で御幸橋下に着岸...」と書かれています。そして、草津港1945年の「黒い雨」の降雨域に御幸橋は近いし、2010年の調査ではすっぽり入っています。にも、関らず、2012年の厚労省の降雨域についての答えは「確定的では無い」と否定しています。2012年の内閣は野田政権と安倍政権です。....答えが出てきませんか....

2019年8月18日

船橋市海神:弓場清孝