「知らなかった」不都合なことを、「知ってしまった」とき、私たちはどうするのだろう。やはり「知らなかった」ことにするのか、それとも向き合う覚悟を決めるのか・・・?「共に生きる」と笑顔で語りつつも、私たちが踏みつけている人たちがいるとしたら、その人たちは私たちにとって「共に生きる」対象ではないということなのだろうか。

 原発労働は、働くというよりいのちを切り売りすることに等しい。しかしその実態は、闇に隠され、「安全」にカモフラージュされる。そんな世界が私たちの生活のすぐ横にあった。「知らなかった」不都合なこと・・・?だが、私たちは本当はうすうす気がついているのかも知れない。私たちのすぐ横には、そうした「不条理」がたくさんあることを・・・!そして今、はっきりと「知ってしまった」私たちは、誰に、何を語り始めるべきなのだろうか。自分自身に・・・同世代の仲間たちに・・・そして子どもたちに・・・!

 原発労働はまさしく「教育」の対極に位置しているのかも知れない。

 

 体調が良ければ伺ってみたいと思います。「原発労働」というのは国策の上に成り立っている労働ですが、書いてあるように「不条理」がたくさんあり、「いのちを切り売り」しても、無いものとされ「教育」の対極に位置しているとも考えられます。

 そして学校教育の「場」において「原発労働」が教育として、子どもたちにも語られることが無いからです。

 それは何故でしょうか?一つの答えがここにあります。

日本は「原発」を平和利用と言い、国民を欺いているからでもあります。本当の「原発」の目的は「電気」のためでは無く、「プルトニウム」すなわち核兵器が欲しいからでしょう。文芸評論家で早稲田大学教授の加藤典洋さんが、3.11以降に『死神に突き飛ばされる』という本を書かれて、その中に、「国策と祈念」という論文を書いておられます。日本の原発の平和利用において、それとワンセットで、核の技術的抑止というものが目指されてきたということを指摘されています。だとすれば「原発労働」全般において敷地内情報は「秘密」で「漏洩」されたら国策にヒビが入りかねないということにも繋がるからです。しかしながら、「原発労働」は広く社会に教育としても広めなければ、被爆労働犠牲者が増えるだけなのです。

 

 

 

 

 

2019年1月27日

船橋市海神:弓場清孝