福島の悲劇はまだ終わっていない。
『美味しんぼ』騒動で渦中の人となった前双葉町町長が、原発の不作為を暴く! 
未曾有の原発事故発生時、素早い判断で町民をいち早く県外避難させた前町長渾身のドキュメンタリー。 
「私はこの事故で負けたくない。敗者になりたくないんです。だから国民の皆さんに言いたい。
特に今、再稼働の問題をつきつけられている地元の人達に。負けている話をするな、勝ちなさいと。」
日本よ、不屈の闘いを続ける元町長の声を聞け!

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平成23年3月11日 福島第一原発事故(日刊ゲンダイ)

 東日本大震災が発生した2011(平成23)年3月11日午後2時46分。震度6を超える大地震による津波は、福島県双葉町と大熊町にある東京電力福島第1原子力発電所に襲い掛かった。その直後、おぞましい原発事故が発生した。井戸川克隆さん(72)は、当時の双葉町長。いま、静かにあの日を振り返る。

 地震発生時、井戸川さんは隣町の町村会館の駐車場に止めた車中にいた。

「グラグラッ。地震だ!あまりの強い揺れに、私はハンドルにしがみつくしかなかった。体が浮き沈みするような、今まで経験がない揺れでした。これは、もうダメだ。原発は大丈夫か。短時間にさまざまなことが頭をよぎりました。なぜか、菅総理も頭に浮かんできて、不安になった。あとは、早く収まってくれ――。その一心でした」

 揺れが収まると、井戸川さんは双葉町役場に車を走らせた。国道6号が混み始めていたため、とっさに信号が少ない“浜街道”と呼ばれる裏道にハンドルを切る。

「ラジオから、3メートルの大津波警報が流れてきました。ですが、道路はあちこち陥没してるし、下水道管は飛び出していてスピードが出せない。通常30分で帰れるところを1時間以上かかって、役場に着いたのは午後4時ごろ。実はこの道は間もなく津波で流されたんです。

 役場の中は書類やファイルがことごとくひっくり返って、職員たちは呆然とたたずんでました。4階建ての庁舎を1階から被害状況を確認しながら最上階の議会議場にたどり着いた。と、東側の窓の前で10人ほどの職員が、声にもならない声を上げていました。津波が迫ってたんです。庁舎と海の間にあったはずの松林が水没して消え、庁舎に近い集落2カ所も海の中に。ショックで言葉もありませんでした」11日の夜は避難所支援などに徹夜で対応する。そして翌早朝、政府からの避難指示が出る。井戸川さんが防災無線のマイクの前に立ったのは12日午前5時44分のことだ。

 

 「第一声は、“町民の皆さん、ただ今、福島第1原発で地震による事故が発生しました”でした。官邸から海岸から半径10キロ以内に避難指示が出されたので、町民に“急いで避難してください。避難先は川俣町です”と呼びかけた。ですが、絶望感と悔しさで涙が出てきて声が詰まってしまった。双葉町のほぼ全域が10キロ圏でしたから……。

 実は、後で分かったことですが、11日の夜9時すぎには、東電の社員も家族もだれ一人双葉町に残っていなかった。いち早く社宅を出て、役場にいた社員も黙って消え去りました。そういう会社ですよ、東電は。現在、どこかで何食わぬ顔をして生きているんでしょうけど、ひどい話ですッ」
 3月12日の昼。役場の南側の窓に設置していた線量計の針が振り切れたという。1号機のベント放出があった時刻だ。「役場に頭から足まで隠した真っ白のフル装備の警察官が近寄ってきて、私に耳打ちしました。“町長、限界ですよ”と。官邸や東電からは断片的な情報しか入らず、唯一警察官からもたらされたひと言が命を守る情報でした。私は6人の職員と一緒に、12日午後2時をもって最終退避命令を出したんです。そして、午後3時36分。私は双葉町福祉施設がある現場で、忌まわしい光景を目にしたんです。まず、ド~ンという地響きのような音。1号機の爆発音でした。その4、5分後に空からぼたん雪のようなフワフワした断熱材が静かに駐車場に舞い降りた。警察官や自衛隊員、バスの運転手ら約300人が見たんですよ。あの時、“これで死ぬな”って思いました」この情報は政府も県も無視。官邸は原発事故後、「ただちに影響はない」とも発表。井戸川さんたちの声はかき消された。
19日、井戸川さんは双葉町民約1200人を引き連れ、川俣町からさいたまスーパーアリーナに避難。バス40台での移動は歴史的な避難行動だった。(ここまで)

 

 

 

2019年1月24日

船橋市海神:弓場清孝