「演じる人物の心情になりきるのが大事だ」という意見もあろうが、私は違った考えだ。心の中は観客からは見えないからである。
悲しい場面では悲しい人物がおこなうべき行為をおこなえば、「悲しい演技」が成立する。その行為だけできていれば、心の中では「腹が減った」「この相手役の女優はなかなかセクシーだな」とよけいなことを考えていてもかまわない。気持ちより行為だ。
「悲しいこと」と「悲しい気分になろうとしていること」のあいだには、明確な断絶がある。演技者が登場人物の心情になろうとしたら、それは「気分を出している」にすぎない。求められていることを「やる」ことこそが、演技の本質である。
演技者は演出家の器にすぎず、器はからっぽなほど使いやすい。何も考えずに求められることができるのが一流である。悲しい表情が必要なら、過去の悲しい出来事を思い出して涙を流されば事足りる。
このことを理解して、一流の演技をおこなっている俳優は意外と少ないのかもしれない。
まれにこれを超える演技ができる人がいる。「何をするか」だけでなく、「何をしないか」がわかっている人だ。
これこそが超一流の演技者である。
その人がただそこに立っているだけで、観客は感動できる。まれにそんな演技者がいる。
その人がただそこに立っているだけで、観客は感動できる。まれにそんな演技者がいる。
観客がその人の演技以前の「存在」に魅せられている。真顔で立っているだけで、いつの間にかいろんな思いをその人に詰めこんで、勝手に感動してしまう。
その演技者に求められているのは、「そこにいること」だけである。何もしなくても演技が成立するのが超一流の演技者だと言える。
2007年にNHKで放映されたドラマ『ハゲタカ』で、菅原文太さんは電化製品会社の会長を演じている。
その演技者に求められているのは、「そこにいること」だけである。何もしなくても演技が成立するのが超一流の演技者だと言える。
2007年にNHKで放映されたドラマ『ハゲタカ』で、菅原文太さんは電化製品会社の会長を演じている。
松下幸之助を彷彿させる国民的なカリスマ創業者だが、会社はすでに傾き、会長自身も病魔にむしばまれているという役どころだ。
『ハゲタカ』で忘れられないシーンがある。
『ハゲタカ』で忘れられないシーンがある。
文太さん演じる会長が病気をおして会社に出るという場面。文太さんは黒塗りの車から降りて歩いてくるだけなのだが、その迫力に誰もが圧倒される。
計算し尽くしたカメラワークに、見ている私もその迫力に本当に圧倒された。
文太さんは、車を降りて歩くだけで「病魔をおして会社の危機に登場したカリスマ会長」という難しい役どころを、息をのむほどの迫力で演じきってしまったのである。
これが超一流の演技というものだろう。では、なぜそれが可能になるのか。
それは、その人が菅原文太だからである。実際、それしか言いようがない。華やかな時代からスターであり続けた演技経験の蓄積と、皺が魅力的に刻み込まれた端正な顔立ちと、低くしゃがれていながら力強い声、それだけですべてが成立してしまう。
高倉健さんと菅原文太さんの訃報の報道で、「これで本当に昭和が終わった」などとコメントする人が多かったようだが、私は違った感慨を味わった。
文太さんは、車を降りて歩くだけで「病魔をおして会社の危機に登場したカリスマ会長」という難しい役どころを、息をのむほどの迫力で演じきってしまったのである。
これが超一流の演技というものだろう。では、なぜそれが可能になるのか。
それは、その人が菅原文太だからである。実際、それしか言いようがない。華やかな時代からスターであり続けた演技経験の蓄積と、皺が魅力的に刻み込まれた端正な顔立ちと、低くしゃがれていながら力強い声、それだけですべてが成立してしまう。
高倉健さんと菅原文太さんの訃報の報道で、「これで本当に昭和が終わった」などとコメントする人が多かったようだが、私は違った感慨を味わった。
昭和が終わったのは、美空ひばり、石原裕次郎の2人が逝ったときだ。
健さんと文太さんは昭和とともに平成に生きた大俳優であって、昭和を引きずっていたわけではない。
この大俳優2人が昭和時代に演じたのは、同時代に生きる男たちにやどる「内なる不良」である。
内なる不良とは、社会に適応しながらも内心では道から外れることに憧れるといった心持ちのことである。内なる不良は、常に心の中のどこかで究極の不良を求める。
この大俳優2人が昭和時代に演じたのは、同時代に生きる男たちにやどる「内なる不良」である。
内なる不良とは、社会に適応しながらも内心では道から外れることに憧れるといった心持ちのことである。内なる不良は、常に心の中のどこかで究極の不良を求める。
「究極の不良」とは、自分の暴力で愛する人を命がけで守れる理想の男のことだ。
偉大な2人の演技者はそれぞれの立場で「究極の不良」を演じ、昭和の男たちが大事に隠し持っていた「内なる不良」を慰撫し、もういちど社会で戦っていくための気持ちを喚起していった。
だが、男女差が大きく埋まっていく平成の世で、この偉大な2人は「不良」から「内なる誠実」を秘めた「父性」を演じるようになる。
だが、男女差が大きく埋まっていく平成の世で、この偉大な2人は「不良」から「内なる誠実」を秘めた「父性」を演じるようになる。
その演じるところは、男がこうありたいと思う憧れの男であるとともに、女が「こんな男がいたら」と思える男だった。手の届かないセクシーなヒーローから、身近な理想の父性になった。
そして、「役者バカ」だった健さんは演じる「器」として最後までまっとうした。文太さんは最後の最後にそれを由とせず、「器」であることを放棄して、自分という「中身」を取り戻そうとするかのように、有機農業と社会活動に転じた。
どちらも「男」としての魅力的な生き方には相違ない。
私にとってこの2人の死は「父性」の終わりであり、また「昭和」の終わりではなく「戦後」の終わりである。「日本」が「ニッポン」になっていく端境で逝ってしまった。
高倉健さん、菅原文太さんのご冥福を心よりお祈りします。本当にありがとうございました。



Image(s): FreeDigitalPhotos.net
【告知】
ディスカヴァー・トゥエンティワンからマイケル・マハルコ著の翻訳書『クリエイティブ・シンキング入門』を出版いたしました。日本ではロジックの大切さが強調されていますが、世界的な趨勢はロジックにとらわれずに、自由な発想でクリエイティブに活動するほうへと流れています。
それを実践するのがクリエイティブ・シンキングです。本書はクリエイティブ・シンキングを身につけるための最良の入門書です。ビジネスやアカデミズムの最先端で活躍していく方はぜひご一読ください。定価は2400円+税です。
本書がなぜ今の日本に必要なのかを書きました。ぜひご参照ください(→過去ログ)。
そして、「役者バカ」だった健さんは演じる「器」として最後までまっとうした。文太さんは最後の最後にそれを由とせず、「器」であることを放棄して、自分という「中身」を取り戻そうとするかのように、有機農業と社会活動に転じた。
どちらも「男」としての魅力的な生き方には相違ない。
私にとってこの2人の死は「父性」の終わりであり、また「昭和」の終わりではなく「戦後」の終わりである。「日本」が「ニッポン」になっていく端境で逝ってしまった。
高倉健さん、菅原文太さんのご冥福を心よりお祈りします。本当にありがとうございました。


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