大正美人
あなたは
たった15年という短い大正時代
なにを思い浮かべますか?
この時代には
大正デモクラシーと称された
自由主義・民主主義的な風潮と
運動が起こりましたよね。
女性が
社会に進出する手がかりが
巡り合わせた時代でもありました。
たとえば
25歳のとき、青踏社を創設し、
雑誌「青踏」を発行した
平塚雷鳥(らいてう)は有名ですね。

らいてうの晩年、カッコイイ![]()
青鞜(せいとう)というのは、
ブルーストッキングの和訳です。
18世紀中頃、
英国のモンタギュー夫人らが
女性も参加できる知的な会話の場
としておこした文芸サロンで、
常連の一人が
青靴下を履いていたことに由来します。
らいてうは、
創刊号 巻頭の文の冒頭で、
元始、女性は太陽であった。
真正の人であった。
今、女性は月である。
他に依って生き、
他の光によって輝く病人のような
蒼白い顔の月である。
と記しました。
この創刊号を読んで
17歳で家出をした伊藤野枝は、
20歳で青鞜の編集と発行人を
引き受けることになります。
革命三部作の一、
「美しきものの伝説」
野枝に扮した私(24歳)と
大杉栄役の風間杜夫さん
1984年 本多劇場
そして
女性解放家となった野枝は、
評論家の辻潤を捨て、
社会運動家でアナーキストの大杉栄の
妻となりますが、
夫婦ともに虐殺されました。
さて
青鞜から111年後の現在は、
ジェンダーフリーの時代となりました。
男性の体なのに
心は女性、
またその反対も然り。
原因は
遺伝子の誤作動なのでしょうか?
体と脳に
不思議な変化が起こることがあっても、
遺伝子の相同乗換えの神秘を
考えただけでも絶対あり得ると
思えてしまいます。
それを踏まえた上でのことですが、
わたしは
女であることを、誇りとしています。
必要以上に女性であることの権利を
主張する時代では
もはやなくなりました。
男も女も
洗練と品格こそが大事と思いますが、
容姿を磨く方法
その要は、内面磨き
というのが持論です。
それから恋愛をすると
やっぱりきらきらと輝きます。
残念ながら
わたしの場合は、
お相手をぜんぜん見つけられない
ちょっと寂しいですね。
面倒な
うとましさがないのはいいけれど。
さて、前置きが長くなりましたが
あなたにお伝えしたかった
一人の女性がいます。
このところ、わたしは
上村松園 全随筆集
『青眉抄・青眉抄その後』を
出かける際も持ち歩き
暇があれば、パラパラとページに
目をやるのです。
松園は、
婦人には、
流行を自分で作り出すくらいの
意気地があって欲しい気がします。
と言ってから、
九条武子夫人のことを
綴っています。

流行の魁(さきがけ)と
なろうとするには、
隙がいり、お金もいるわけです。
それに美しい人でないといけない。
美しい人だと、
どんなふうをしてもよく似合うのは
そこだろうとも思います。
最近で日本のあるひと頃の流行の
魁(さきがけ)をなした人として、
私は九条武子夫人を思い出します。
武子さんは生前、
自分で着物の柄などについて、
呉服屋にこんな風なものあんな柄のもの
と
しきりに注文していられました。
〈中略〉
目が美しいとか
生え際がいいとか、
口元が可愛いとか、
とにかく部分的に綺麗な人は
かなりたくさんありました。
けれども
何もかも揃って綺麗な人というと、
なかなかいないものだと思いました。
第一、あの社会の人だと、
どことなく気品が乏しいので、
これ一つでもすでに欠点になります。
そこに行くと武子さんくらいの人は、
よっぽど珍しいと思ったことでした。
松園は
大正四、五年ころ、
帝展出品の月蝕の宵のモデルを
武子さんになってもらいました。

松園に絵を習い、
花道は、西川一草亭に師事しています。

大正時代の三越製 冠は別
わたしの雛人形の名前も武子です。
わたしが名付けたのですが、
わたしはずっと
武子姫に憧れてきました。
大事にしまっている古い新聞を
覧ください。

中外日報 昭和57年9月29日
覚えていないのですが、
きっと
母からいただいたのでは?
歌人として名を馳せた
九条武子女史は
京都西本願寺
法主・明如(大谷光尊)を父に、
藤子(側室 紀州徳川藩殿医の子)を
母として、誕生しました。
才色兼備と世に名高かった武子姫は
明治42(1909)年
21歳で結婚しましたが、
お相手を選ぶにあたっては
難儀しました。
武子の父が存命中には、
シャムの皇太子への輿入れが
検討されたこともありました。
東本願寺の連枝(法主の親戚)が
候補となったこともありました・・。
かりそめの別れと聞きておとなしう
うなづきし子は若かりしかな
— 処女歌集『金鈴(きんれい)』 —
最終的に婚姻の任にあたったのは
武子の兄嫁・籌子(かずこ)でした。
籌子は11歳のとき、
武子の兄で、
浄土真宗本願寺派の法主を継ぐ光瑞と
婚約したので、
西本願に住むことになり、
武子とは大変に仲よく育ったそうです。
その籌子が采配した結婚相手は、
籌子の弟・良致(よしむね)でした。

良致は、
貞明皇后(旧姓 九条節子)の異母弟。
大正天皇の妃貞明(ていめい)皇后の
父は、九条道孝
母は、側室・野間幾子
歌人 与謝野晶子は、
武子姫の結婚を
こんな風に言いました。
京都の人は、ほんとに惜んでいます。
あのお姫さまを、本願寺から失すことを。
京都が生んだ女性で、
日本の代表の美人です。
あの方に盛装して巴里あたりを
歩いていただきたい。

公爵家から分家した良致(男爵)は、
正金銀行に勤務していましたが、
新婚旅行と
天文学をケンブリッジで学ぶのに
英国へ渡りました。
良致と武子は
先発の
大谷探検隊で有名な兄・光瑞夫妻を
追い、欧州へ渡航したのです。
ラファエル前派のモデル
ジェーン・バーデンの影響を受けた髪型
ところが二人は
初めから性格や趣味が
合わなかったのです・・・。
旅先では
姉の籌子と
地中海に周遊に出たり、
社会事業の視察をしてまわり、
一年後、武子は単身で帰国しました。
良人はその後も滞欧十年。
その間には、
英国女性に二子をなさせていた
ともいわれています。
世間からは花の嫁御をもらい
日本一の果報者といわれても、
他人にわからないものが、
その人にとってないとはいえません。
明治43(1910)年に帰国した武子は
歌を佐佐木信綱に学び、
麗しい姫だけではなく、
同情と才能が一つとなって
いよいよ光りはじめるのでした。
明治44(1911)年には
仏教婦人会連合本部長となり、
各地を巡って
女子教育の促進にも努めました。
約30万人の婦人会会員の陣頭に立ち、
国内にとどまらず外地にまで奔走して
女子大学設立のための趣意書を配布し
勧募(寺院がつのる寄付)をしました。
国運の発達は、
国民の開発に由らざるべからず
として、教育の重要性を訴えました。
女子への教育拡充を求め、
家政、国漢文、歴史、外国語等教科を
設ける理由は、
教育設備の女子に薄い現状を拡充し、
つとめて常識の発達、趣味の養成、
徳性の涵養を図り、
女子の職分を尽くさしめて、
国体の精華を
発揮せんと欲するに在り
と呼びかけたのです。
キリスト教の同志社女子大学に無い、
仏教の女子大をつくりたかったのです。
そして
大正9(1920)年、
京都女子大学の前身となる
京都女子高等専門学校が
開校されました。
また同年、
歌集『金鈴(きんれい)』を発行すると
文筆家として仕事の幅を広げ、
武子はスターのような存在として
世間から注目を浴びました。
しかしそれは世間というものが
高い志を持った美しい人として、
あるときは
阿弥陀さまと同列にし、
あるときは
細川ガラシャ姫よりもっと伝説の人に
自分たちの満足するまで
つくりあげようとしたゆえん
なのかもしれません。
おせっかいな世間が
良致を無理に東京に転任させ、
同年末、10年ぶりに良人が帰国。
帰る人にも悩みは多かっただろうし、
武子も、まぶたがはれるほど泣いて、
心をつくろう人世への
お化粧直しをされたのでした。
大正12年に関東大震災が襲い家を被災。
夫妻は
下落合の借家にたどりつきました。
ある知り合いの人が、
武子さんの日常を、
バサバサしてなつかしみがなく、
まるで親分の女房みたいだと評し
電話の声と地声とはちがい、
外から帰るとどてらでくつろぎ、
廊下は走りがちに歩く
と言ったそうですが、
そうした飾らない一面があってこそ
血の通う生の人間です。
困っている人に手を差し伸べることを
生きがいとした武子
お人形さんに、
あの晩年の
目覚めてきた働きはできません。
著作で得た報酬も提供して
全壊した築地本願寺の再建や、
震災の負傷者や孤児の救援活動、
託児所や臨時の診療所、
恵まれない少女の施設費に
あてたのです。
昭和2(1927)年の
歌文集『無憂華(むゆうげ)』は
昭和の枕草子と宣伝され、
爆発的に売れて再販を重ねました。
10月23日、丸の内の東京會舘で
出版記念パーティーが開かれ
発起人は
与謝野晶子、徳富蘇峰、菊池寛など。
出席者は
佐佐木信綱、久米正雄、岡本かの子、
横山大観、大谷紝子など約70名。
刊行から4年で383回も重版される
一大ベストセラーとなったのです。
この巨額な印税で、
あそか病院は建設されました。
けれども
その夢を
武子はその目で見ることは、
できませんでした。
昭和3(1928)年、
暮れから
歯痛、発熱があった武子は
明治神宮に程近い磯部病院に
1月17日に入院しました。
気管支炎、扁桃腺炎は回復しました
けれども
歯を抜いた後の出血が止まらず、
敗血症を発症。
重態のうちにも
『歎異抄(たんにしょう)』を読み、
有碍(うげ)の相(そう)
かなしくもあるか
何を求め何を失ひ 歎くかわれの
絶筆
歎異抄は、
鎌倉時代初期の
浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)の
教えが、
異なって伝えられていることを歎き、
親鸞の教えに帰ることを呼びかけた書。
2月7日朝、
40歳でこの世を去ったのです。
3回忌の記念に
『白孔雀』が出版されたとき、
巻末に
あの柳原白蓮が書いているところによれば

武子と白蓮(大正天皇生母 柳原愛子の姪)
ともに伯爵家出身で
ともに佐佐木信綱に師事
大正三美人と謳われたうちの二人
百人(ももたり)の
われにそしりの火はふるも
ひとりの人の涙にぞ足る
武子のこの歌に涙ぐんだ白蓮は、
たあさま(武子)は深い深い胸の底に
涙の壺を抱いていた人だった
と記し、
どんなに励まし
慰めてくれたことであったろう、
と続けて、
「貴女は幸福よ」
この一言によって私は考えさせられた。
人というものはどうかすると
自分の幸福を忘れている事がある。
幸福だという事を忘れれば
幸福にはぐれてしまう、
という事を教えられた。〈中略〉
美しき裸形(らぎょう)の身にも心にも
幾夜かさねしいつはりの衣 武子
「ねえ、私だって、ああなのよ、
こうなのよ、ねえ、よう」
甘えるように私の手をとって
ゆすぶったりした。
私は、
「そんなら御勝手になさいまし、
ただ、くしゃくしゃ語ったって、私が
どうにもして上げられるもんじゃなし」
とつんと突き放したものいいをすると
その時、ほっとためいきをつきながら
「もういわないから、かんにんよ。」
あの時の少女のような身のこなしが、
今も目に浮かんで来てしようがない。
と
白蓮は在りし日の武子を綴りました。
死ぬる日の半月ばかり前、
偶然に行きあったのは、
かの、かりそめの別れとなだめて、
おとなしく頷いて別れた
東の御連枝(ごれんし)でした。
でも今度は
かりそめのこの世での、それが
さいごの別れになったのです。
思いがけない病が重った武子に
その人も
病院を訪れたそうですが、
お別れはもう先日で、すんでおります。
そう言い伝えてもらい
会わなかったといいます。
武子さんはあまりに広く愛されて、
世間のつくった型へはめ込まれ
聖女として苦しみ、
その切ないなかに生きぬいたのでした。
白蓮(燁子)が
良人を捨て、情人の許へ走るという
世紀の失踪をして、
世上の悪評の的になっているとき、
燁(あき)さまは、
どうしてあんなこと
なすったのでしょうね
突然、
武子は時雨(しぐれ)に言いました。
時雨は、これまた極上の美人。
劇作家で文芸雑誌女人芸術を創刊した
長谷川時雨のことです。
林芙美子、円地文子、吉屋信子を
巣立たせたことが、
時雨の一番よく知られた功績です。
武子の白蓮への言葉を聞いた時雨は、
武子さんは、もっともっと大きい
苦悶を隠しているなと感じたのでした。
をみなはもをみなのみ知る道を
ゆくそはをのこらの知らであること
— 武子歌集『薫染(くんぜん)』 —
をみな = 若く美しい女
武子は脚本も手がけ、
帝国劇場で
大正14年に上演されました。
著作料収入はみな
診療所と病院設立を目指して
差し出しましたが、
歌舞伎座でも慈善興行された
その戯曲「洛北の秋」のなかで、
蓮月尼にこのように語らせました。
みめよい娘じゃとて、ほんに女は
仕合せともかぎりませんわいな。
おお、そうですぞ、おまえさんの正直な
美しい恋のまことが、やがてきっと、
大きな御手にみちびかれてゆきまする。


午前5時に起床し
下落合の自邸の庭を掃除する武子
1923年 関東大震災の映像
貞明皇后の慰問活動
九条武子氏は慈善活動に挺身
出典
長谷川時雨著『近代美人伝』
KIMIÉ拝
本気で美人になることを望むなら
手探りを繰り返すより
その道に精通した人に習うのが
一番の近道です。
健康美でエレガンス
キミエ・メソッド
あなたの美のパートナー
KIMIÉ![]()
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1段、2段、3段 上級の
美人へ変身
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その人の魂の真の美しさ
愛情のこもったケア、情熱によって
時とともに増していくもの
ー オードリー・ヘップバーン ー










