なぜぼくらはおいていかれたの  -4ページ目

なぜぼくらはおいていかれたの 

地球はみんなの星 猫も犬も大きな動物も小さな生き物も人間も 心に感じる思いをまげず ゆうゆうとのうのうと生きる星 

今日は世界中の動物たちの幸せを願って、【キャンドルナイト】

 

一昨日の夜から、森と、荒れ庭と、納屋と、ご近所の猫ちゃんと、突然やってきた猫ちゃんたちと、我が家の上に、

この前皆様からプレゼントいただいた毛布、猫ちゃんベッド、暖かバスタオル、湯たんぽ、ホカロン、古着や古セーターの詰まったダンボール箱がいっぱいです。

勿論フードやちゅーるも!

 

前に使っていたうちの犬たちの旧い小屋にも、古着や古セーターがホカロンと詰まっています。

納屋のアパート。森の木々と茂みの間のねぐら。

 

一生懸命温かいくつろぎ場を作りました。

神様に祈りながら。皆様に感謝をささげながら。

 

そして、ナント、数日前に、目やにとぜぇぜぇと食欲不振で姿を消した年寄り猫ちゃんのカクちゃんが、夕べの真夜中、納屋アパートの一室から、様子を見に行った私に飛びついてきたのです。

もっていたちゅーるもパクパクです。私は夜中に猫の様子を見い行くとき、いつも、缶詰かちゅーるを持って出るのです。

 

嬉しかった! 年寄りカクちゃん、無事でいてくれた!

健康も取り戻してくれていた!

2020年12月13日()   礼拝説教
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何を光と信じるか、それが問題だ  (石田 学牧師)

 

◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


イザヤ書9:1

◆天地の創造

1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。


2) 新約聖書

ヨハネによる福音書1:6−9

 

6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、
また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

(聖書 終り)

 

 

◇ 説教  (石田 学牧師)         2020年12月13


何を光と信じるか、それが問題だ


 

わたしたちは今のこの時代に、

新型コロナウィルスの感染拡大と、

それによってもたらされる諸問題のため、

先行きの見えない不安と、

自分たちの安全が脅かされている心配で、

闇の中を歩んでいるように感じています。

災害や疫病などはたしかに恐れを抱かせます。

聖書の中にもそうした恐れが出て来ます。

しかし、聖書が闇の恐れを語る場合、

そうした禍よりもむしろ、

人々の罪深さゆえにもたらされる闇こそ、

もっとも恐るべきものであることを、

わたしたちに告げているように思います。

きょうイザヤ書9:1を読みました。

預言者イザヤが語るのは、

人間の罪が作り出す悪こそが、

真に恐るべき闇だということです。

人々は軍事力に依存しようとし、

占いやまじないに頼り、

互いに愛し合わなくなり、

神への信頼を抱かなくなる、

そんな闇の中に、

イザヤの時代の人々は閉ざされています。

しかし、神が闇を勝利者にはしません。

イザヤは神がもたらす希望の未来を、

このように告げ知らせるのです。

 

  闇の中を歩む民は、

  大いなる光を見、

  死の陰の地に住む者の上に、

  光が輝いた。

 

この言葉で語り始める大いなる光こそ、

救い主誕生の預言でした。

イザヤは続けてこのように希望を告げます。

 

  ひとりのみどりごが、

  わたしたちのために生まれた。

 

預言は既に起きたことのように語られますが、

これは未来の希望の預言です。

預言者は神が来たらせる未来は、

確実にそうなると確信していたので、

あたかもすでに実現したかのような仕方で、

未来の希望を語ったのでした。

救い主の出現こそが光の到来です。

預言者の語る救い主の到来は、

神の言葉が人となって世に来られたことで、

実現したのでした。

きょう交読した詩編130編の詩人は、

暗闇の中を生きる人々の待望を代表して、

このように歌いました。

 

  わたしは主に望みをおき

  わたしの魂は望みをおき

  み言葉を待ち望みます。

  わたしの魂は主を待ち望みます。

  見張りが朝を待つにもまして。

 

詩人はみ言葉こそが闇を照らす光、

そう信じて闇が開けるのを待ち望みました。

これらの預言者や詩人の望みを受けて、

ヨハネ福音書は告げ知らせるのです。

「まことの光は世に来て、

すべての人を照らす」と。

イエス様が教えを宣べ伝え始めるに先立ち、

一人の人物が現れました。

洗礼者ヨハネと呼ばれたその人は、

いったい何者なのでしょうか。

人々から預言者と信じられた、

偉大な人物であったのは確かです。

ヨルダン川で人々に罪の悔い改めを説き、

洗礼を授けていたこの人物について、

ヨハネ福音書はこう書き記しています。

 

  彼は光ではなく、

  光について証するために来た。

 

ヨハネは光ではない。

光について証言するために来た人物。

それが福音書の語るヨハネ像です。

その洗礼者ヨハネが証言する光について、

福音書はこう語ります。

「その光は、まことの光」だと。

まことの光があると言うのなら、

まことの光ではない光、

つまり「偽りの光」も存在するはずです。

福音書がきょうの箇所で告げるのは、

まさにそのことです。

まことの光がある、

そして偽りの光もまた存在すると。

真実ではない光、

多くの人が光だと信じ込む、

偽りの光とは何を指すのでしょうか。

おそらく二つの偽りの光があるのでしょう。

この世界には警戒しなければならない、

二種類の偽りの光、

ほんとうは光ではないにもかかわらず、

多くの人がこれこそ光だと信じ込む、

そのような偽りの光があります。

その一つは、

偉大な人物や尊敬を集める預言者、賢者、

そして、それらの人たちが語る教えを、

わたしを照らす光だと信じ込むことです。

そうした人々やその教え自体は、

すばらしく説得力のあるものなのでしょう。

洗礼者ヨハネの言葉に多くの人々は感動し、

こぞって悔い改めの洗礼を受けたのです。

それでも、わたしたちは、

なぜヨハネ福音書が洗礼者ヨハネを、

「彼は光ではない」と明言したのか、

その理由を考えなければなりません。

福音書がヨハネを光ではないと告げたのは、

彼のことを世の光と信じ、

救い主として従う人たちがいたからです。

福音書には「ヨハネの弟子たち」が登場します。

ヨハネが処刑された後も、

ヨハネの弟子たちは活動していました。

古代キリスト教の研究者たちは、

教会が始まったごく初期の時代には、

ヨハネをメシアと信じる弟子たちと、

イエス様を信じる弟子たちが存在して、

両者は競い合っていたと考えています。

ヨハネを光と信じるヨハネ教団が存在した。

その可能性は高いようです。

それだけヨハネは偉大だったのでしょう。

イエス様自身も洗礼者ヨハネのことを、

「預言者以上の者」

「もっとも偉大な者」

と高く評価しています。

それほどの偉大な人物であるのなら、

なぜ彼を光と信じていけないのでしょうか。

偉大な教師や賢者、神の遣わす聖人は、

だいたい似たような教えを語っています。

ある学者たちは、

イエス様の言葉と古代ペルシアやバビロン、

その他で活躍した賢者の言葉や、

人々の間で受け継がれて来た格言を調べると、

イエス様の言葉のほとんどは、

他の聖人や賢者や格言にもあると主張します。

なあんだ、それだったら、

別にイエス様でなくても、

他の偉大な賢者を信じても同じか。

そう考えるとしたら、

わたしたちは救い主の意味を間違えています。

たしかに、洗礼者ヨハネは人々を正し、

悔い改めへと導きました。

しかしヨハネには人々を救う力はありません。

もし正しい生き方をしたいだけなら、

ヨハネの弟子でも良いのでしょう。

しかし、人々の罪をあがない、赦し、

神の子としての身分を与え、

天の国と永遠の命を約束することは、

ヨハネにはできません。

それは神の遣わすメシア、

救い主だけが実現することだからです。

この世界には、ヨハネだけでなく、

たくさんの偉人や聖人、賢者がいます。

それらの人々の教えを真摯に受け止め、

教訓とすることは良いことだと思います。

しかし、それらの人々を救い主と信じ、

自分の救いを願うことになるなら、

偽りの光を信じることになります。

洗礼者ヨハネは偉大な預言者ですが、

彼には世の人々を救う力はありません。

だから福音書はヨハネの偉大さを認めた上で、

彼は光ではないとはっきり告げるのです。

もう一つの警戒すべき偽りの光は、

それよりもはるかに邪悪で危険です。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙二で、

こんな言葉を書いています(11:15)。

 

  サタンでさえ光の天使を装う。

 

光のように装って人々を欺くサタン。

恐るべき偽りの光です。

この世界にはきらめく輝きがたくさんあります。

豊かな資産、輝く貴金属・宝石、

絢爛たる名声や地位、

そこまではなくても信頼できる預金通帳。

それらに依り頼んで誇るなら、

いつか自分の救いには何の役にも立たないと、

思い知らされる時が来ることでしょう。

それらの偽りの光を用いて、

サタンはイエス様を誘惑したのでした。

パンの誘惑、富の誘惑、支配の誘惑。

イエス様はそれらを斥けて、

公の働きを始められました。

イエス様に従うわたしたちは、

富も豊かさもある程度の預金残高も、

必要なことを知っていますが、

それらに自分の救いを依存したりはしません。

光の天使をサタンが装う時、

たいていはもっと巧妙なやり方をします。

光を装うサタンは、

正義を標榜し、

悪や不正と戦うことを主張します。

悪と戦い、不正を打ち破り、

正義を打ち立てよう。

このスローガンのもとで、

敵が誰か、何が悪かを明らかに示して、

人々をその闘いへと駆り立てます。

ヒトラーが主張した敵は、

共産主義者でありユダヤ人であり、

劣等な遺伝子を持つと決めつける人々でした。

軍国主義下の日本が敵だと主張したのは、

日本のアジア侵略を批判する欧米であり、

共産主義者であり、

天皇を神と認めないキリスト教徒でした。

やっかいなことは、

まことの光が呼びかける正義と公平が、

光を装うサタンの主張と、

一見同じように思われることです。

クリスチャンであっても、

よほど気を付けていないと、

光を装うサタンの主張を信じ込まされます。

なぜなら、サタンはキリストのふりをして、

偽キリストとして現れるからです。

しかし、違いを見極めることはできます。

まことの光と、光を装うサタン、

似たような主張のように思われても、

それがもたらす結果は対極的だからです。

光の天使を装うサタンが何を生み出すか、

その果実を見れば明らかです。

対立と敵意、分断と反目、報復と恐れが、

その行き着く先にあるとしたら、

たとえ正義を唱えているとしても、

たとえ悪との闘いを主張していても、

闇が偽装した偽の光です。

ヨハネ福音書は、

そうした偽りの光が溢れる闇の世に、

「まことの光」が来たと宣言しています。

そのまことの光は、

「恵みと真理に満ちて」います(1:14)。

そうであるとすれば、

そのまことの光が照らし出す道の先に、

わたしたちが見出すのは、

愛と慈しみ、和解と一致、

憐れみと共感のはずです。

光の照らす先にそれらを見出すなら、

わたしたちはそれこそまことの光、

そう信じて歩んでゆくことができます。

この世界はおそらく、

偽りの光の方が多く、

また強く輝いているのでしょう。

日々の生活の中でも、

信仰生活においても、

わたしたちにとって、

何を光と信じるか、

それが問題です。

まことの光であるキリストの輝きは、

この世界に対立や敵意や分断を作りません。

誰かに敵意や怒りを向けたり、

批判や攻撃を他の人に向けません。

まことの光であるキリストの輝きは、

それとは対極的に、

愛と慈しみ、和解と共存を作ります。

愛と憐れみを他の人に向けます。

それがまことの光の証。

そのキリストの光に照らされて、

わたしたちはこの世を旅してゆきましょう。

 


(以上)

 

誰かに敵意や怒りを向けたり、

批判や攻撃を他の人に向けません。

まことの光であるキリストの輝きは、

それとは対極的に、

愛と慈しみ、和解と共存を作ります。

愛と憐れみを他の人に向けます。

それがまことの光の証。

そのキリストの光に照らされて、

わたしたちはこの世を旅してゆきましょう。

 

↑の【】内について 佐々木和恵 個人がよく思考すること

 

私は、他者から中傷誹謗を受けたり、捏造と感じる決めつけを受けると、

対手に敵意や怒り、批判や攻撃を向けることがあります。

その自分の感情や言葉が激し過ぎるので、結局、多数から私自身を悪としか思われなくなり、その虚しさと失意は生きる力を失いそうになるほどです。

最近、とみにその痛みを強く感じ、自分がどうしようもなく醜く思え、生きていくことを放棄したいと思い詰めたりするのです。

 

毎週伺っております先生の礼拝のみ言葉を、大切に心にしまっていくことで救われています。ありがとうございます。

 

S木 K志様 

お久しぶりです。長い間フードをお送りいただいていまして、ずうっと感謝でいっぱいです。

今回またまたキャットフード、黄色の花模様の猫ベッドをお送り下さり、恐縮とともにあらためて感謝しています。

本当にありがとうございます。夕方遅く納屋に、二つの段ボールを重ねてそこラッキーな色のベッドを入れて様子を見に行きましたら、黄色の男の子が気持ちよさそうに眠っていてほんとに嬉しかったです。

お天気のいい日に、納屋を整理して一層温かく居心地のいいようにしようと思っています。

 

S田 H子様

ご無沙汰しています間に、お辛い変化を受けておられたのですね。

そんな中、私のSOSを気にかけて応えて下さり、言葉もない思いです。誠実でお優しいH子さんに感謝でいっぱいです。本当にありがとうございます。

これから寒くなります。

どうかお身体、ご自愛下さいね。

猫たちはいただきました猫ベッドで、温かく過ごせます。本当にありがとうございます。

レモン(N子)様、何度もメールを下さって、お手数をおかけした上に、昨日、上記お通りの贈り物の数々をいただきまして、本当にありがとうございます。

 

私はチョコレートがとても久しぶりで、自分でも恥ずかしくなるくらい嬉しく嬉しくいただきました。

実は今も朝4時に起きて、お茶を淹れていただいています!

 

お陰様で、猫たち(皆様からの毛布やベッド!!!)にも私にもステキなクリスマスが一足先に来た思いです。

御礼の申し上げようもないくらい感謝しています。

 

 

ありがとうございます

 

 

大きな段ボールで沢山送られてきて、本当に助かっています。

子猫たちが大きくなり、美味しそうに沢山食べます。

子猫のうち二匹は、地元の方が納屋を守るために猫を飼いたいそうで、納屋に温かく寝る場所も考えるし、見に来てくれていいからと言われますので、来週避妊手術をして、S田さんからいただきましたフードが猫たちがカリカリパクパク食べますのでお土産に持たせようと思っています。

ちゅーるも一部持たせます。二匹が喜んで食べてくれるでしょう。

 

いつもうちの猫たちに役に立つようにして下さり、本当に感謝しています。ありがとうございます。照れ

 

レモン様 何度もメッセージを下さり、ありがとうございます。

私もご返信しているのですが、PCそのものがダメになっているのかごれんらくがとれず本当にすみません。

 

何時に荷物を送信すれば、というお問い合わせを何度も下さり、とても恐縮しています。

 

レモンさん、猫ベッドをもうご用意くださっているのですね。

もしそうでありましたら、ご都合のよろしい時にお送りいただけましたら、猫のために大切に使わせていただきます。

 

なんどもお気遣いのメールを下さりほんとうにすみません。

お気持ちに感謝します。

 

H様 12月9日に猫ベッド届きました。

とても素敵な柄の猫ベッドで、居間に簡易ベッドを置き、その上に毛布と猫ベッドを並べているのですが、

いただきましたベッドも早速そうやって使わせていただいています。

本当にありがとうございます。

 

お陰様で猫たちはみんな、家の猫も納屋の猫も、温かく過ごすことができます。有り難いです。

 

H様、皆様、心からお礼を申し上げます。

ありがとうございます。

↓フエイスブックの記事

山崎 好裕

11月30日 9:33  · 

〈猫への餌やりについて、舌足らずな啓蒙は却って事態を悪化させることを、行政は認識しなければならない〉

 多くの自治体が、犬猫の殺処分ゼロを謳ったり、地域猫活動を推進したりする一方で、無主の猫への餌やりを条例で禁止したり、チラシを配布したりしている。これは大きな矛盾であり、自治体の意図と裏腹に、住民間の対立を煽っていることを自覚すべきである。

 きちんと知らない方もいるかと思うので、改正動愛法第25条第1項を示したいと思う。

「都道府県知事は、動物の飼養、保管又は給餌若しくは給水に起因した騒音又は悪臭の発生、動物の毛の飛散、多数の昆虫の発生等によつて周辺の生活環境が損なわれている事態として環境省令で定める事態が生じていると認めるときは、当該事態を生じさせている者に対し、必要な指導又は助言をすることができる。」

 ここからどうして「猫への餌やり禁止」が出てくるのだろうか?

 理由は二つしか考えられない。

 第1は、行政の担当者の理解力が不足していて、この条文を餌やりの禁止と読んでしまっている可能性である。よしんば、わかっていたとしても、禁止と言っておいた方が面倒がないとして、職務怠慢を決め込んでいる恐れもある。

 第2は、実際に悪臭などのクレームが相次いだということで、手っ取り早い餌やり禁止の対応をしている可能性である。これを我々経済学者は統計的バイアスという。考えてもみてほしい。地域猫活動をしている皆さんがクレームを言う理由はない。結果としてクレームのあった市民の主張だけを取り上げるというバイアスを、行政は犯していることになる。

 写真のようなチラシや条例を見かけたら、法を守る良き市民の義務として、行政の蒙を啓いていただきたい。そのときは、私のこの投稿を示してください。

#地域猫活動 #改正動物愛護管理法

礼拝説教一覧 (oyama-church.com)

 

◇ 説教  (石田 学牧師)         2020年12月6


闇の中に光が輝く


 

きょうはヨハネ福音書1:4−5から、

説教を準備させていただきました。

この箇所はとても翻訳が困難で、

解釈も難しい箇所です。

単語や文法は簡単なのですが、

幾通りにも受け取ることができ、

どれが適切な理解なのかは、

人によって異なるからです。

きょうの中心的な箇所ではありませんが、

1−3節も簡単に触れておきましょう。

福音書を書いたヨハネは1−3節で、

万物が神の言(ロゴス)によって創造され、

すべてのものは言によって成ったと語ります。

「初めに神は天地を創造した」と、

創世記は語り始めますが、

ヨハネはそれを受けて、

神による創造は神の言によったのだと告げ、

創世記の記述を説明しています。

万物が言によって創造されたことを踏まえて、

ヨハネは4節を続けます。

  言の内に命があった。

しかし、この日本語訳はだいぶ曖昧で、

意味がわかりにくいです。

これでは、命が言のどこかに、

部分的に存在していたかのようです。

最新の聖書協会共同訳はこう訳しています。

  言の内に成ったものは、命であった。

こちらの方がだいぶ良いように思います。

それでも、まだわかりにくいですね。

ヨハネが言おうとしているのは、

言が命の創造主であり、

言が命の源だということです。

聖書が最初に語る大切なことは、

神が天地を創造したということです。

ヨハネ福音書はこの創世記の言葉を受けて、

「万物は言によって成った」と告げます。

神はこの物質世界を創造なさいました。

神が創造したのは物質だけでしょうか。

いいえ。

この世界は物質だけで成り立ってはいません。

もしこの世界が物質だけだとしたら、

世界の存在は神にしか認識されません。

もし命が存在しないとしたら、

この世界の存在もまた無意味です。

世界の存在は誰にも知られないのですから。

神は、物質に宿る仕方で命を創造し、

あらゆる命の最後に、

人の命を創造なさいました。

わたしたちの命は神の言によって創造され、

神の言がわたしたちの命の源です。

わたしたちは物質的な意味だけでなく、

命そのものを神の言から受けています。

神の創造は、命の創造を目指したのであり、

その完成こそが、人の命です。

創世記は天地創造の出来事をこう語ります。

  初めに、神は天地を創造された。

  地は混沌であって、

  闇が深淵の面にあり、・・

この記述が告げることは明らかです。

神が天地を創造したとき、

闇がすべてを覆っていたということです。

無限の闇の拡がり、闇の支配に対して、

神はこう言われました。

  光あれ。

すると光がありました。

神による光の創造です。

そして、創世記は、

闇に対して光の輝きが増し加えられてゆく、

そのような仕方で創造のを語るのです。

それはまるで、

闇の中に次々と輝く光が生み出され、

多様な被造物が出現し、

あたかも静まり返ったコンサートホールで、

楽器が一つずつ音を奏で始め、

しだいに多様な音が共演して響きわたり、

フル・オーケストラが交響するかのよう。

そのような仕方で世界は造られてゆきます。

そして、もっとも創造を輝かせるのは、

命の創造であり、

人の命が与えられる時です。

神の創造は、深淵に広がる闇への対抗であり、

もっとも力強い闇への勝利こそが、

命の創造です。

だから、闇の反対語は命であり、

命の反対語は闇だと言えるでしょう。

闇の反対語は光ではないのかって?

はい、そうです。

だからヨハネはこう言うのです。

  この命は人の光であった。(共同訳)

命は光。

命の対極は闇。

命が失われることは闇の勝利です。

なぜ人は死を恐れるのか。

その理由がここにあります。

死は闇の象徴であり、闇そのものだからです。

人の力で死を滅ぼすことができないように、

人の力では闇に立ち向かうことはできず、

闇に勝つことはできません。

いったい誰が死に対して、

そして闇に対抗して、

闇に打ち勝つことができるでしょうか。

闇の中に光を創造した方、

命の創造主である神だけです。

人は光を作る方法を発明しました。

火を使って闇を自分の周りから追い払い、

いろいろな燃料を工夫し、

原子力の火を灯し、

電球や蛍光灯やLEDを発明しました。

自分の魂を明るく照らすため、

富を蓄積し、身分階級で人の上下を作り、

宝石や金銀を身に付け、

陛下や閣下や将軍や社長や先生と呼び合い、

光輝く世界を創り出してきました。

しかし、しょせんは物質的な光。

それらはいくら輝かせても、

まことの光である命は得られません。

命の源である創造主、

神の言、それだけが、

人の命の望みです。

わたしたちの命は闇に囲まれています。

常に虚無に脅かされ、

闇の脅威にさらされています。

いったいだれが言えるでしょうか、

わたしの命は永久に安泰だと。

「明日も元気に頑張ろう」とは言えても、

明日の命すら保証できません。

あらゆる病がこの世界に溢れています。

がんや心臓病や脳血栓、内臓疾患、

定番のもろもろの病気に加え、

新型コロナウィルスの脅威にさらされ、

たぶんこれが最後の病気ではないでしょう。

闇の力はそのような仕方で身近にあります。

災害、暴力、敵意、破壊、老い、

挫折、失望、無力感。

わたしたちは自分で思う以上に、

わたしたちを飲み込もうとする、

諸々の闇の脅威にさらされています。

こうした闇の力に立ち向かうことは、

わたしたち自身にできることではありません。

ただ一人、

わたしたちの光である命の源、

神の言だけがその力を持つ方です。

だから、わたしたちは信じ、望みをおきます。

人となって世に来られた神の言、

わたしたちの主キリストを。

人の命の源である神の言キリストだけが、

闇に勝つ光の創造主だからです。

キリストを信じるとはいったいどういうことか。

その意味をよく理解しておきたいと思います。

キリストを信じるということは、

わたしたちの命の源が神の言、

キリストであるということです。

永遠の言であり命の源である、

キリストの命と結ばれることによってのみ、

わたしたちの命が、

一時的なものではない、永遠の命と結ばれます。

だから、わたしたちは心しておきましょう。

まことの光である神の言、

神の独り子キリスト以外の、

どこかに、あるいは何かに、

まことの光を求めることは間違いだと。

まことの光以外は、

それが何であれ、この世の何か、

すなわち物質的な光にしか過ぎず、

それらは一時的であって、

闇に勝つことはないからです。

神は万物を創造なさいました。

しかし、闇を消し去ったわけではありません。

この世界は、いわば深淵の間に造られました。

神の創造は深淵の間に光をもたらしましたが、

この世界が今も闇の淵にあることは、

世界の現実が証明しています。

最近、わたしはニュースを見るのが嫌です。

どれほど今の世界に闇が拡がり、

虚無の支配が迫っているかを、

つぶさに実感させられるからです。

アメリカの大統領選挙で、

わたしはつくづく思わされました。

なんと多くの人たちが、

力と強さの幻想に魅了されることか、

なんと多くの人たちが、

自分の信じたいことを信じることか。

それが偽りであっても、

根拠のないことであっても、

世界をいっそう混沌に向かわせても、

そんな幻想に浸らされ、

闇の欺きにだまされる人の、

なんと多いことか。

新型コロナウィルスの問題も含め、

世界はいま闇の力に侵食されています。

だが、わたしたちは闇に怯える必要はなく、

恐れに身をすくめて生きる必要もありません。

「光あれ」と言われた光の創造者、

わたしたちの光である命の源、

神の言が人となって世に来られ、

わたしたちを照らす光となられたからです。

闇の中に、キリストという光が輝いています。

闇はこの光に勝つことがありません。

わたしたちが使用している新共同訳聖書は、

5節をこう訳しています。

「暗闇は光を理解しなかった」。

以前の口語訳聖書は、こうでした。

「やみはこれに勝たなかった」。

「理解しなかった」と、

「勝たなかった」。

同じ動詞なのに、

どうしてこんなに違う訳になったのか。

その理由はわかっています。

この動詞は両方の意味を持っているのです。

どちらに解釈するかで、

この言葉の意味が全く異なってきます。

結論から言いましょう。

「闇は光に勝たなかった」。

そのように訳すべきです。

最新の聖書協会共同訳がそう訳しています。

  闇は光に勝たなかった。

まことの光である神の言、

キリストに、闇は勝つことがない。

この宣言にこそわたしたちの希望があり、

わたしたちの確信と平安の根拠があります。

わたしたちは、

この神の言、命の源である、

キリストと結ばれているからです。

 

 

 



(以上)

H原K江さま 本日たくさんの猫ベッドが届きました! 

10個以上もきれいなままお送り下さり、嬉しく感激しました。

実は皆様からの毛布やベッドが送られ、ご支援を頂き過ぎてしまい、申し訳なく思っていたのですが、

庭に8畳敷きと四畳半の納屋ががあり、そこを手術済みの野良ちゃんが数匹いるのですが、(自由猫ちゃん)温座布団を三つしか入れてやれず、あとはホカロンをいくつか敷いてはいても、寒さは厳しく思案していたのでした。

 

それで今日、皆様からの毛布や敷きもおのと、H原さまからの今日の贈り物を取り合わせて納屋も温かくすることが出来ました。

さっき、二つの納屋をランプで照らしてみましたら、二匹がぬくぬくもぐっていて本当に安堵しました。(いずれもっと入ってくると思いますラブ

 

自分のことを言って恐縮なんですが、私は気になることがあるとくよくよして眠れなかったりするのですが、この冬は皆様のおかげで眠れます。本当に嬉しいです。爆  笑