osho


私にとっては、あらゆるものが遊戯にすぎない。

私は存在しないし、いかなる目的もない。

それでも、ものごとは起こっている。

なぜものごとが起こっているのかと尋ねてもいい。

ものごとが起こっているのは、それを止める目的もないし、また止める者もいないからだ。

私が理解できるかね?


止める者もいないし、止めようとする目的もない。

ものごとは起こるべくして起こっている。

あなたは通路になる。

能動的でいては、通路にはなれない、決して媒体にはなれない。

受動性のみがあなたを通路にする。

受動性とは、あなたがいないという意味だ。

あなたがいては、受動性は口先だけのものになる。

自我はいつも能動的だ。

だから、あなたが受動的でいる瞬間には、エゴは存在しない。


受動性とは無我の境地を意味する。

私は全面的に受動的だ。

何であれ起こることが起こる。

私は決してなぜとは問わない。

というのも、問いかける相手がいないからだ。

どこかであなたが誰かを、神自身を見いだしても、神はただ笑うだけだろう。

神ですらそれに答えることはできない。

神が答えられないのは、因果律の概念、なぜという概念は、
分断された流れのなかで初めて意味を持つからだ。

始まりと終わりがあれば、因果律が意味を持ってくる。


だが、流れの全体を始めもなく終わりもないものとして理解すれば、
あらゆるものが他のもののなかに溶け込み、あらゆるものが他のものから現れてくる。

まさに大洋の波のように、どの波の背後にも別の波があり、前にも別の波がある。

大洋全体に波があり、波は永遠だ。

人間だけが「なぜ」と尋ねる。

人間以外のものは、少しも思い悩むことがない。

人間のマインドは不安になると問いを発し、それから答えを提示する。

問いが無意味である以上、その答えが無意味であることは言うまでもない。

だが、問いをつくりだすために、

私たちは答えを見いだすまでやすらぐことができない。

そのために、私たちは次から次へと答えを見つけては、新たな疑問を生み出しつづけてゆく。

質問をしては、それに答えることの馬鹿らしさをそっくり見抜けたら、
自分がたんに独り言をくり返しているのだということがわかる。

あなたが尋ね、私が答えているときですら、尋ねているのは
人間のマインドであり、答えているのも人間のマインドだ。


それは同じマインドの隠れんぼうにすぎない。

誰が尋ね、誰が答えていようと違いはない。

人間のマインドが尋ね、人間のマインドが答えている。

私たちは、問いと答えが混ざり合ったこの大へんな混乱を引き起こしてしまった。

だが、ひとつの問いも答えられたことはない。


問いはいつもの場所にありつづけている。

この問いと答えの無駄なやりとり、
どこにも行き着くことのない無意味で虚しい努力を見ることができたら・・
稲妻の閃光のように、この馬鹿馬鹿しさに余さず気づいたら・・
人間のマインドの馬鹿らしさを笑えるだろう。

そして笑いが起こる瞬間、あなたは人間のマインドを完全に超越する。

そうなれば、問いもなければ、答えもない。

そうなったら、あなたは愛する。

そこには目的もなく、原因もない。

そうなったら、生きているだけで満たされる。

あなたは尋ね、私はあなたに答える。

だが、私自身はいかなる問いをも発することができない。

私に関する限り、答えもなければ、問いもない。

大洋の波のように、木の葉のように、空に浮かぶ雲のように、
いかなる問いも、いかなる答えも持たずに、私は生きつづける。


問うことのこの馬鹿馬鹿しさを余さず自覚した瞬間、何かが完全に、根こそぎ崩れ落ちた。

それは一種の復活だった。

私は再誕生して、宇宙的次元に生まれ変わった。

「私」としてではなく、宇宙的意識そのものとして。


この宇宙的次元においては、あらゆるものが遊戯だ。


すべてが遊戯であることを理解するだけでなく、
ひとたび自覚したら、あなたは完全にやすらいでいる。


絶対的にやすらいでいる。


そうなったら緊張はない。


あなたはくつろいでいる。


自我は存在しない。


自我はくつろぐことができない。


それは緊張を食べて生きている。


緊張を餌にしている。


自我がなければ、緊張はない。


そのときあなたはすべてを含んでいる。


過去もなければ、未来もない。


あなたは永遠だ。