精神的には落ち着いたのに、真夏の気温は厳しかった。

人体というのはタンパク質と脂肪の集合体なので、
暑さの中でどうしても避けられず腐敗していく。

設備が時代物のせいかエアコンはしょっちゅう止まる。

ゴム手袋の中に汗で水がたまるほど、気温と湿度は上昇していく。

ご遺体管理責任者の指示に従ってご遺体全身をホルマリンに浸し、
終了時にも追加し、さらにホルマリンに漬けた布で丁寧に全身を巻いた。

その上からさらにまたホルマリンを丁寧にそそいだ。

なのに、黒や黄色のカビのようなものが出てしまった。



何がいけないのかわからなかった。

これが夏でなければ。

せめて秋であれば。

うだるような真夏でさえなければと何度思ったことだろうか。

その苦しみと申し訳ない思いを、医学を辞した今になっても昨日の
ことのように思い出す。

メアリー・ローチの著書を読んで、アメリカにおける秋冬の実習を
うらやましく思ったのはそのせいだ。真夏3週間の追実習では、
毎日朝の8時半から9時には着替えて解剖室に入室、
昼間控え室にいったん退きカロリーメイトなどをかじる以外は
夜中19時すぎ、最後のひとりとなってカギを返しに行くまで
ひたすら実習にはげんでいた。



適切な態度とは言い難いことを承知で告白すると、
ご遺体に感情移入するあまり私は夜帰宅しておさらいしたのち就寝すると、
今解剖中のご遺体と

「痛くないですか。そうですか。
 もう少しで腕の剖出を終了しますから、がんばりましょうね」

などと会話しながら実習する夢をたびたび見たりしていた。



全ての追実習・試問合格時、私にはホルマリンアレルギーという、
おみやげがのこされていたのであった。新築には住まず、
衣料やリネンは洗濯をした後でないとさわれない。
家具売り場には近づかない。
博物館にも近づかないなどの注意をすればなんとかやっていける。

解剖や病理で日々ホルマリンを扱いながら発症しない人もおられるので
もともとの体質もあるだろうが…。私が他の学生よりも長くホルマリンに
暴露していたので発症したのかもしれない。

しかし、やはりこれが夏でなければ。

あれほど、腐敗を防ぎたい一心でバシャバシャと湯水のように
ホルマリンを使わずにすんだかもしれない。

そして、個人の勉強の程度問題の側面もあるが、
専門課程でいの一番に解剖実習を行うと、学年が上になって
勉強が進むにつれ各部位6日間という区切りに追われるのではなく
とことんこの部位の仕組みを知りたかった…と実感することが多く
なった。


やる気のある者は研修医となってから、業務の合間をぬって
解剖教室に通うなどの自習をするなどしていた。

しかしそれはごく一部の医者に限られていた。



篤志を受け取るために、もっと合理的な解剖実習
システム・カリキュラムがあるのではないか…?との疑問から
このような一連の記事を書かせていただいた。



しかしここであったことは全て数年前のこと。

今では1年から実習が始まる大学も多いと聞くし、
もしかしたら初夏ではなく、春や秋になっているかもしれない。

これは仮定だが、もしも今もK大で夏に解剖が行われているならば、
冬の方が合理的に学習出来るとの思いから季節を変更していただき
たくも思う。

解剖のおもひで・完