見えない人・改(あらため)

 

 

右手の斜面で、ゆらりと影が動きそこから気配が溢れ出す。

 

上から覗き込む大きな顔の真ん中に、大きな目が一つ、外向きに開いた牙が猪のそれを連想させる。

 

見た目が怖いだけで、人に優しく良い働きをする見えない人達は多い。

 

だが、この大きな顔の見えない人は、見かけも中身もかなり恐くて、陽が落ちた山中では出会いたくない類のものだった。

 

寝食を忘れると言う言葉があるが、この大きな顔の見えない人に掴まれてしまうと、生きる気力が萎え無気力になってしまう。

 

眠ることも食べることも忘れるほどの無気力は、一見すると病のように見えるのだが生きる力、命の力が急速に流れ出してしまう事で起こるのであろう。

 

この大きな顔の見えない人は、もともと山が生み出した自浄作用の中核になる存在だったと見受けられるが、どんな事情で今のようになったのか?

 

そこに猛烈に興味を引かれた。

 

掴まれるとは五体だけの事では無く五感にも同じことが言える。

 

見る力、聞く力、感じる力を掴まれてしまうと、その後の長い時間をこの大きな顔の見えない人の影響下で生きることになってしまう。

 

そして心を掴まれてしまったら、長い時間を中身の無い器のような生き方を強いられることになりかねない。

 

「あの二人なら、こんな時こそ日ごろの信心の程を神仏に見ていただくためにとか言って、マジメにお祓いをするのだろうな・・・」とそんな事を思い出す。

 

私は、祖父母のように作法にのっとったお祓いは好きではない、結果は出るのだがそこに至る時間が長いのが嫌なのである。

 

この類の見えない人達は、例えるなら「一小節唱え終わると力が行使される」って感じのルールや縛りのようなものがあって、陽の高い時間帯であれば一小節を唱えさせなければ何の害も無い。

 

またまた例えではありますが、呪文を唱えようとしたらその始まりを止める、杖を振り上げようとしたらその始まりを止める。

 

事の起こりの最初の一歩を抑えることで、この見えない人と争う事も無いのならそれが一番と、どこか他人事のように考えながら祖父母を偲んだ。