本日は自粛生活⑰ですⅰ
秀吉の天下統一![]()
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賤ケ岳山頂![]()
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1582年(天正10年)6月13日に起こった「山崎の戦い」で、織田信長の仇を討った羽柴秀吉。 「清洲会議」で織田信長の後継者争いをした柴田勝家と徐々に対立が深まっていき、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)まで発展しました。これに勝利した秀吉は、天下人へと大きく前進したのです![]()
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「賤ヶ岳の戦い」が起きた原因は、1582年(天正10年)6月27日に開催された織田家の後継者と遺領の配分を決める「清洲会議」です。織田家筆頭家老の柴田勝家が招集しました![]()
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まずは後継者から。信長の嫡男、織田信忠の子である三法師(さんぼうし)を推挙した豊臣秀吉に対し、信長の三男である織田信孝を推す柴田勝家と意見が二分しました![]()
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遺領の配分によって秀吉は筆頭家老になり、織田家での影響力と発言力が増大していきました。一方で勝家は、二番手に後退。これらのことが面白くなかった勝家は、秀吉への不快感が募っていくのでした![]()
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そして1582年(天正10年)10月15日。信長の葬儀が京の大徳寺で執り行なわれました。秀吉が養子の秀勝(信長の四男)を喪主にし、秀吉は信長の位牌を手にして葬儀に参加。信長の後継者であることを世間にアピールし、自身の立場を強化することに成功しました![]()
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清洲会議から半年が経った12月2日。秀吉は、越前にいる勝家が雪で身動きがとれなくなったのを待っていたかのように和睦を破棄し、勝家に譲った長浜城を攻め奪還。わずか数日のことでした![]()
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賤ヶ岳の戦い![]()
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3月12日。勝家は利家、佐久間盛政らを率いて3万の軍勢で北近江に布陣しました。対する秀吉は、長島城からの襲撃を避けるため1万の兵を伊勢に置き、3月19日に5万の兵を率いて近江の木ノ本に布陣。両者とも直ぐに攻撃をすることなく、陣地や砦の構築を行なっていました![]()
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大垣城で情勢の変化を待っていた秀吉ですが、各所の砦が陥落していくのを知り、賤ヶ岳へ行軍。ただし、通常の行軍ではありません。午後2時に大垣を出発した秀吉軍は、午後7時には賤ヶ岳付近に到着していたのです。52kmをわずか5時間で走破。これを「美濃大返し」と言います![]()
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