小林信彦さんの「ドジリーヌ姫の優雅な冒険」(文春文庫)

 

   1970年代も終焉を迎えるという時代。舞台は横浜の高台。

   二階堂秋彦と妻、敏子は結婚2年目の相思相愛夫婦。

  妻、敏子は、たぐいまれな美貌、抜群のスタイルに勇敢な気性を持った素晴らしい女性。しかし、大きな欠点がひとつ。彼女の学生時代のあだ名は「阿修羅姫」あるいは「壊し屋」。そう、彼女はうまれつき、たいへんなドジ(死語?)なのでした。

   一方、夫の秋彦は、職業不明な、しかし、稼ぎの良い男。「さすらい」を愛し、旅を愛しています。いや、旅のほうが彼を放っておかないのでした。突如、二階堂家にかかってくる電話。それは、たいてい秋彦の救いの手を求める声。それに応じて、突然の旅に出る秋彦。度重なる旅の生活で、秋彦が得たのは、隠れた名声と、超絶な料理の腕前でした。そのレシピノートは「A」から始まって「Z」まで。

  ある日、秋彦が敏子に中華風コーンスープの調理法を講釈している最中、神戸からかかってきた電話。中華料理店で料理人が殺され、オーナーが助けを求めてきたのでした。秋彦に同行した敏子は代わりに厨房に入り、東坡肉とフカヒレ入りスープを作ることになります。絶望的な気分で、まず賄い用のチャーハンを作る敏子、しかし、やたらに焦げ付く中華鍋。一方、秋彦のほうは、実はその間にも、料理人殺人事件の真相と犯人に関して、推理をめぐらしていたのでした。「夜霧に消えた東坡肉」。

  など12編にわたる連作短編集。

 

 

  なぜ、12話なのか。それは、この作品が昭和52年の3月から、ちょうど1年間にわたって、女性雑誌「クロワッサン」に連載されていたからです。文庫本では、冒頭にプロローグがあり、そこでこともあろうに、クールで美形の超人、二階堂秋彦のたいへん間抜けな姿が暴露されています。しかし、そのシーンがなければ、この本はもっと鼻につく料理ウンチク小説になっていたでしょう。ちなみに、秋彦の一人称は「ぼく」。現代なら、間違いなく「俺」になっていたでしょう。でも、それだとこの小説全体を覆っている「品格」のようなものが台無しになってしまうのではないか、と思います。秋彦は、ハードボイルドの探偵風の男ですが、けっして「俺」とは言わない男。どことなく、品が良い。ヤクザな連中と渡り合い、怪しげな裏社会に知人がいるにもかかわらず。

 

  以前、「個人的飯テロ小説ベスト10」で10位でご紹介した小説。

  https://hama-sush-jp.pro/eseseve10/entry-12407315283.html

 

  一編一編は現代の短編小説に比べると相当に短い。しかし、その密度の濃さといったら。

  扱われている料理は、前記の東坡肉、中華風コーンスープのほか、いちごのババロア、パイナップルのシャーベット、シャリアピンステーキ、ガスパチョ、どぜう鍋、仔牛のトマト煮込み、スパゲティ・バジリコ、慈耳麺(ジーアールミェン)、伊府麺(イフメン)、七面鳥のロースト・クランベリーソースなどなど。横浜、神戸との関連からか中華料理の比率が高いです。

 

   興味深いのが、登場人物のひとりがクリスティの「クリスマス・プディングの冒険」を取り上げ、そこに出てくる料理を詳述しているところ。その人物によれば「クリスティのミステリーは美味しい料理の記述が多い」。これには同感する人、多数でしょう。その他、でてくるミステリーが、リチャード・コンドンの「ワインは死の香り」という作品。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%81%AE%E9%A6%99%E3%82%8A-1977%E5%B9%B4-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%BA-%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3/dp/B000J8U18Y

 敏子はそのトリックにさんざん文句をつけているのですが、ノベルズの方は高評価だけど、文庫版は低評価な作品です。ただ、美食のウンチクはすごいらしいミステリー。

 

 あと、特筆すべきは「アボカド」。

 現代では小さなスーパーでも山売りされているアボカドですが、1980年代初頭では、まだまだ未知の果物でした。さすがの秋彦のレシピノートにも載っていません。アボカドと悪戦苦闘する敏子。「森のバター」という表現を文字どおり解釈して、トーストに塗ってみようとする始末。結局、彼女は教えを乞いににメキシコ料理店へと向かいます。

 ありえない調理法として載っているのが「アボカドの刺身」。現代では、そこここの居酒屋の定番。アボカドにワサビ醤油が合うとは、誰も気づかなかった時代の物語なのです。

 

  この作品が紹介される時、かならずといっていいほど引用されるのが、2話めの「ババロアばあさん」。ある上流の老婦人のために秋彦にかわって敏子がババロアとシャーベットをつくる話。確かにギャグ満載の一作ですが、他の作品がかろうじて「現実的」なのに、この話は非現実的なのがちょっと残念でした。しかし、悔しいですが、思わず笑ってしまいます。

 

  敏子に想いをよせる、出入りの酒屋の若旦那、ステーキ焼きの名人、とてもハードな生活を送る論客夫婦など、登場人物もみな気持ちがいい。

 

  現代でも考え込まされるのが、第9話にでてくる「日本各地の雑煮に関する考察」でしょう。少なからぬ人が、人生に一度は直面するのではないかと思われるカルチャーショック。みなさま、初対面の人ばかりの会合で、話題がつきたら、ぜひ「雑煮」をテーマにおおいに語りあうことをおススメします。

 

 驚くのは、実名で出てくる名店のいくつかが、現代でも健在だということ。ウナギの野田岩くらいしか私は知らないのですが。