アガサ・クリスティの「満潮に乗って」(ハヤカワ文庫)

 

  大富豪ゴードン・クロードが空襲で死亡。残されたのは、2週間前に結婚したばかりの年若く美しい妻、ローズマリー。遺言状がなかったために、ゴードンの全財産は、ローズマリーが相続することに。

   動揺したのは、これまでゴードンの援助を受けて暮らしてきた親族たち。かれらは遺産を自分に有利なように使わせようと、純真無垢なローズマリーを懐柔しようとしますが、彼女には頭のキレる兄デイヴィッドが後見人としてついています。

   手を焼いたゴードン一族のもとに耳寄りな噂が。昔、ローズマリーと死別したと信じられてきた最初の夫が、生きているというものでした。本当なら、ローズマリーとゴードンの結婚は重婚になり、無効になります。最初の夫だという男は、イノック・アーデンという仮名で村に乗り込んできますが、着いた早々、何者かに殺されてしまうのでした。

  ここで捜査に駆り出されたのが、名探偵エルキュール・ポワロ。

  しかし、事件の真相が解明される前に、次の悲劇が・・・・・・

 

 

  エルキュール・ポワロもの。しかし、ポワロの出番は少なく、作品の大部分が、ローズマリーをめぐるゴードン一族の動向に費やされています。しかし、「忘れられぬ死」に続いて、またもや、「ローズマリー」。クリスティでも、こういうことは珍しいのではないでしょうか。

 

 気になるのが、ゴードンの若い姪リンと、婚約者のローリィの恋の行方。というのも、リンはローズマリーの兄で、危険な魅力をもつデイヴィッドに次第に心ひかれていくからです。

 デイヴィッドはクリスティが好んで書くタイプの青年。勇敢で野心家、戦時下では英雄になれても、戦争が終わってしまうと、平和な社会からはみ出してしまうタイプ。クリスティは第一次世界大戦と第二次世界大戦と、ふたつの「戦後」を経験し、それぞれの年代に書かれた作品にしばしばこのタイプの青年を登場させます。30年近く時間が過ぎているのに、人間性というものは簡単には変わらないということですね。

 

 若妻ローズマリーは「忘れられぬ死」のローズマリー・バートンとは、まったくちがったタイプの美女。頼りなく、弱々しく、はかなげな美しさ。邪気がなく、善良で、信心深い。あまりの純真さには思わず心を打たれると同時に、心痛みます。

 

 そして、なんといっても印象的なのが、ゴードンの兄の妻フランセス。彼女は没落した貧しい貴族の娘で、ゴードン一族はその高貴な血統をなにより誇りにしています。

  フランセスはもはや48歳。化粧をせず、”凋落の美”を持っていると書かれた女性。その振る舞いは、あくまで誇り高く、貴族的。一本、芯が通っており、貴族としての責務と弱者への配慮を忘れません。クリスティはこうした”真の貴婦人”を描くのが、ほんとうに巧みです。

  クリスティの油ののりきった1940年代に書かれた作品。ミステリーとしても意外性に富み、張り巡らされた伏線を楽しむことができ、なおかつ人間ドラマとしても十分な読みごたえがあります。ただ、地の文にアンフェアな部分があります。読みなれた読者さんなら、お気づきになると思いますが、それをあげつらうような野暮なことはなさらないと信じています。