「わからない」は、出発点になる

——“多様性”って、わかったふりしなくていい

 

 

 

 

 

みんなで話していたとき

「多様性アレルギー」という言葉が出てきた。
 

それを聞いた瞬間、私はなんだか引っかかった。

 

 

でもそれは「ひどいこと言うなあ」という批判ではなくて、
あ、ここに“本音”があるかもしれない

って思ったから。

 

 

 

 

多様性、多様性って言われすぎて、
 

「結局なにが正解なの?」

「なんでも受け入れろってこと?」

 

ってモヤっとしている人もいると思う。

 

そういう気持ちって、

実はとても正直で、
そこから始まる対話があるんじゃないかなって思う。

 

 

 


「多様性」って、実はわかりにくい

 

正直、「わかったふり」をする方が楽なときもある。

 

言葉だけが先に走って、実感が追いつかない。
 

どこまで配慮すればよくて

どこからが“アウト”なのか
怖くて踏み込めない

 

そんな空気を感じることもある。

 

 

 

でも、それって自然なこと。
 

 

自分の経験したことのない世界のことは

わからなくて当たり前。

 

だからこそ、

「わからない」っていう状態そのものを出発点にしていいと思う。

 

 

 


「理解する」って、できるのかな?

 

「わかろう」とすることは大切。
 

 

でも、

「わかる」って、ほんとうにできるんだろうか?

 

 

同じ「性自認が女性」で「異性愛」でも、
誰を好きになるか、どうしてその人に惹かれるのかは、人によってまったくちがう。

 

「なんであの人が好きなの?」って、
自分でも説明できないときがあるくらい。

 

 

それなのに

 

「あなたのこと、理解してるよ」

 

って簡単に言うのってちょっと違う気がする。

 

 

 

だから私は

「相手を理解すること」って

実はゴールじゃないと思ってる。

 

 

 


わからないからこそ、寄り添える

 

だから私は、こう伝えたい。

 

 

「わからない」って、あっていい。
 

 

わかろうとする姿勢は大事だけど、
無理に“わかるふり”をする必要はない。

 

でもその“わからなさ”を理由に、
否定したり、遠ざけたりしないでほしい。

 

 

「自分の考えとは違うけど、尊重したい」
 

 

その感覚こそが、多様性を生きるってことだと思う。

 

 

 


「ふつう」って、誰が決めたの?

 

もうひとつ、気になっているのが

「ふつう」って言葉。

 

 

多様性の話になると、
「“ふつう”の人が、“ちがう人”を受け入れる」

って構図が、どこかにある気がする。

 

 

でもさ、「ふつうの人」って、本当にいる?

私たちは誰もが、どこかの視点ではマジョリティで、
どこかの視点ではマイノリティ。

 

 

つまり、全員が“多様性の中”に生きている。
 

 

「ふつう」って、実はすごくあいまいで、

こわれやすいラベルなんだと思う。

 

 

 


性教育の授業で、私が必ず伝えていること

 

高校生たちに、私はいつもこう伝えている。

 

 

「理解できない=悪いこと」じゃない。

 

 

わからないのは当たり前。
でも、わからないからこそ知りたいと思ってほしい。

 

 

「もっと相手のことを知りたい」

って関心を持つこと。


それが相手を尊重するということにつながっていく。

 

 

だから、私たちは“正解”を持たなくてもいい。
“問い”を持ち続ける姿勢こそが、対話と関係のスタートになるんだと思う。

 

 

 


💭今日の問いかけ

あなたが「ふつう」だと思っていること、
それって、誰のものさしですか?

「わからない」って感じたとき、
そのまま遠ざけていませんか?
それとも、もう一歩、近づいてみようと思えますか?

 

 

 

 

「わからない」って

どうしてこんなに苦しくなるんだろう。

 

 

でも、「わからない」は、遠ざける理由じゃなくて、
ちょっとずつ近づこうとする“きっかけ”なのかもしれません。

 

多様性って言われるたびに、モヤっとする。
それでも子どもたちの前に立つあなたと、一緒に考えたいから——

 

👉 noteで深堀しています。記事はこちらからどうぞ
 

 

 

 

 

 

今日のサスケさん💕

真剣に自宅警備中!

しっぽだけでもかわいい💕