あの日から23年 | マネchanのぼやき

マネchanのぼやき

おばちゃんの昭和徒然記。
古すぎて思い出すのに時間がかかります。

1995年1月17日。
あれから23年も経つ。
私は東京にいたので直接的被害は無かった。父親の実家が神戸だが、あの被害の大きさを物語る裂け目の向こう側だったために、神戸市内でありながら親戚達にも被害は無かった。

ただ、あの日のTVで見た光景は今も覚えている。
特に、NHKの神戸支社の当直社員が飛び起きる姿が写されていた映像、断裂した高速道路から頭を落としそうに停まっている高速バス、ねじ曲がった高架に横たわる新幹線。
東日本大震災とは違った恐怖があった。

未だあの時は、成人の日が1月15日と固定されていて、15日が日曜日。翌月曜日が振替休日で、三連休明け、火曜日の朝だった。
自室で仕事に行く仕度を整え、1階のリビングに降りていくと、母の声が。
「神戸が燃えてるよ!」
最初は何が何だか分からなかった。大きな火事が有ったのかと思ったが、巨大な地震が関西を襲い、神戸を中心に大変な状況になっているということしかニュースからでさえも分からなかった。
TVに写し出されていたのは、長田区が火災で火の海になっているところだった。
父が弟である二人の叔父の家に何度も電話をかけるが繋がらない。大阪の友人にかけても同じだった。
あの当時は、未だ各自が携帯を持つ事もなく、インターネットも家庭にまで普及していなかった。
いくら親戚が関西に居るからと言って、状況も分からぬまま会社を休む訳にも行かなく、父も私もそれぞれ出勤した。

ただ職場に付いても仕事どころでは無かった。自分の気持ちではなく、関西支社等に連絡が付かないのである。
名古屋支社はかろうじて繋がったが、西の職場には一切繋がらない。
関西には顧客も多く、支社や工場も多かった、当時、私が勤めていた会社は、仕事どころではなくなった。
職場の上の人達の好意で、TVが置いてある会議室では、NHKをつけたままにしてもかまわないということになり、特に関西出身者や関西に家族が居る人達はしょっちゅう会議室に来ていた。
私も何度か自宅に電話をしたが、叔父達とは連絡がつかないままだった。
社内でも、関西の支社や工場にいる社員達の安否が分からず、庶務課でも対応に追われていた。

幸いと言ってはなんだが、私の回りの関西出身者の家族、親戚で亡くなった方はいなかった。家が倒壊、半壊した人達は多かったようだ。
私の従姉妹は、勤務先と工場が火災で燃えて無くなり、倒産して辞めさせられた。

私は丁度、この震災の二ヶ月前に、旅行で神戸を訪れていた。その時に、食事をしたお店が並ぶ商店街が燃え落ちていたのがTVに写し出されていた。新幹線や在来線の駅も倒壊、見覚えのある場所が全く違ったモノに変わってしまっていた。
翌日、神戸の叔父やおおさかの友人から電話があり、無事が確認され一安心した。

先日、地震では無事だった叔父が癌で亡くなって七回忌の法要で久しぶりに神戸に行ったが、神戸の繁華街三ノ宮駅前の人の少なさに驚いた。

5時46分。嫌な時間だ。
東日本大震災は2011年3月11日、14時46分。
時間は違えど何故か同じ46分。
熊本地震は違ったが、46分というのが気にかかる。
日本は地震大国とはいえ、大規模地震のタイプが全て違うのも対応に苦慮する。
忘れないこと、風化させないことが唯一の手段だろうか?

まとまりの無い終わり方だが、忘れないために残しておこうと思う。