さて。
今回は、かなり長い記事になってしまいますが、おゆるしくださいね。
イエス様が釘づけられた十字架・・・これね。
プロテスタントの教会の講壇には、イエス様の御姿は付いてへん十字架を付けとんですけども。
カトリックの教会に行くと、十字架に釘づけられた状態のイエス様の御姿を見かけはると思います。
私は以前、バイト先で御世話になっとったカトリックミッションの幼稚園内に在った教会で、
イエス様の十字架を見とったんですが・・・
たぶん、カトリック教会の十字架って、こんな感じなんやないでしょうか。
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あと・・・結婚式場のチャペルとかでも、必ず、何らかの形で十字架を見かけますよね。
さらには、おしゃれしたいっていうんで、十字架のペンダントをされてる方も見つかったりします。
私も時々、自分の胸に、十字架のペンダント・ネックレスを着けたりしますけども。
でも、そもそも十字架って何でしょう。不思議に思われるかもしれませんよね。
実は、十字架は・・・、もともと、とんでもない極悪人を死刑にする為の道具でした。
けっして、カッコいいもんやとか、おしゃれって言えるような・・・美しいもんやないんですよ。
イエス様は、彼を憎む多くの人々によって、十字架につけられました。
それは、12時の記事でも書かして頂きました。
この十字架の話は、4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)の、いずれにも記されてる。
あまりにも有名なエピソードです。
じゃあ・・・お話を進めていくことにしますね。
裁判に掛けられたイエス様は、重たい十字架を背負わされます。
ただ、ほんまなら、十字架で死刑にされるような人間って、よっぽどの極悪人でしかない。
あと、ローマ帝国に反抗したような人間とかね。
そう考えるなら、何も悪いことをされなかったイエス様なら、
ほんまやったら、十字架に掛かられる必要なんか無いはずなんですよ。
でも、イエス様は、十字架に掛けられてしまいます。
まず、十字架刑を受ける人間は、自分の手足に、犬釘っていう太い釘を打ち込まれるんやそうです。
しかも両足は、離れたような状態やなしに、足首を重ねられて纏められるようにして。
で、手を横に広げて動けんようにされて、それぞれの両手首と両足首に犬釘を撃ち込まれるんです。
犬釘っていうんは、線路の枕木を固定するような、ものすごい太い釘らしいんですよ。
皆さんも、目ぇ瞑って想像してみてください。
自分自身が、イエス様と同じように十字架に掛けられる前にされることが、どんなんか、いうんを。
周りからは罵声・悪口を浴びせられて、唾を吐き掛けられて、身体には何回も激しい鞭を打たれる。
十字架を担いで歩く時も、「さっさと歩け」言われながら、兵隊に鞭を打たれる。
耐えられますか・・・?
今でも、時々、思い出すんやけど。
2004年の秋、麻生瑛子さんっていう、クリスチャンの女優さんが私らの教会に来てくださってね。
教会の礼拝堂で『マリー・マグダレーン』いう、お芝居をされて。
そん中で、麻生さんが十字架に釘づけられたイエス様の様子を演じて下さったんです。
そのことを、今でもハッキリと覚えとんですが・・・。
イエス様は、あまりにも十字架の上で苦しいから、息が出来ひんのです。
固定されて打ちつけられたような身体を、必死で上へ持ち上げようとしても、
身体自体が重たいから、自分で持ち上げたいと思っても、その身体を支えきれんで苦しい。
自力で上がろうと思たって、打ちつけられた手は広がったままやさかい、動かせえへんわけでしょ。
もちろん苦しいから、身体は、重みで下に落ちていく。
で、また身体を持ち上げようとしたら、今度は、固定されてしもた足首が痛なってくる。
そういうことを繰り返していくうちに、呼吸困難になって、ついには、窒息してしまうんですよ。
でも、死刑囚によっては、十字架の上で2日近くも生きてたらしい。
そんな人も居るらしいんですよ。
ヨハネの福音書19章31節からは、イエス様が十字架で死なれた後のことが記されてて。
イエス様は、もう既に死なれてるって認めたから、脛を折らんかったって書いたってね。
でも、あと二人の死刑囚の脛は折った、いう中身が書いたるんやけど、ちょっと見て頂けますか。
でも、そんな事ぐらいで死んでしまうんかなって、最初は私、それを不思議に思ってたんです。
ほんでも、このことについて、具体的に教えてくださった牧師先生のお話いわく・・・。
『すねを折ったら一気に窒息してしまうんやで』って言われてました。
でも、イエス様は、そんな状態やのに、十字架の上で、こんなふうに祈られました。
「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」
って・・・。
御自身を憎んで、十字架に掛けて殺そうとしてる人間の罪を赦してあげてくださいなんて。
あなた様が同じ立場やったら、さて、こんなふうに、神様に対して祈ることが出来るでしょうか。
イエス様が、どれだけ私らぁの為に苦しんで、御自分の生命をささげようとしてくださってるか。
それを思うと、やっぱり胸が締めつけられます。
ほって、終いには、酸いぶどう酒を口にされて「完了した」言われて、息を引き取られたんですよ。
子どもの頃の私は、ずっと、つらい虐めを受けて生きてきた。
やで、自分が死んだら、自分の恨みで、私を虐めてきた人間を、絶対ひどいめに遭わせてやるって。
そう思って生き続けてきたし。
自分を苦しめてきた人間を憎み続けて、もう、こんな私なんかバイバイやと思いもって生きてきた。
そんな私やったのに・・・。
イエス様は、こんな罪深い私の為に十字架に掛かってくださったんや。
そう思うと、ただただ『イエス様。ごめんなさい』っていう思いしか伝えられんのです。
でも、こんな者の為に御自分の大切な命を差し出してくださったことを、心から感謝しとんですよ。





