おはようございます。訪問ありがとうございます。皆さん、如何お過ごしですか。

 

先月から、お祈りについての話がテーマとして出てきとんですけども・・・。

今朝のお話には、2人の人が登場します。

今回の「パリサイ人と取税人の祈り」は、信仰についての正しい姿勢が何なんかを問うっていう。

そんなイエス様の大切なたとえ話です。さっそく、お話を始めますね。

 

 

  対照的な二人

イエス様は・・・。

自分は正しいんやと思とって、他人を見下しとる者らぁに対して、たとえ話をなさいました。

その話が、今回の『パリサイ人と取税人の祈り』です。

 

話に登場する1人は、人々に聖書を教える立場にあった「パリサイ人」って呼ばれてる人。

もう1人は「取税人」いうて、人から税金を取り立てる働きをする人です。

この2人ね・・・、神様に向かって祈っとる時の態度が、全く違うもんやったんです。

じゃあ、その態度は、どんなふうに違うとったんやろね。

 

 

パリサイ人って言われてる人らぁは・・・ユダヤ教ん中でもファリサイ派って呼ばれとる人らぁで。

彼らは、聖書に書いたる決まりを守ることに、一生懸命になってました。

日常生活ん中でも、安息日に設けられてる厳しい掟をビシッと守ることを誇りにしとる。

そういうことに、強いこだわりを持っとったんやんね。

また、民衆に厳しい決まりを教えとった者やさかい、自分らぁは、ちゃんと決まりを守っとんやと。

そういう自負を持っとったんやんね。

律法学者らぁの多くがファリサイ派で、当時のユダヤ社会では、信仰的にも尊敬されとる立場。

やでなんかな・・・。

彼らん中には、胸を張って、こう言うとる人も居りました。

「他の人間は何てダメな奴らだ。自分こそ正しい者だ。自分には何も恥ずかしい事なんかないぞ」

とにかく自信満々で、他の人々を見下すような傾向があったんやね。

 

でも、もう1人の取税人は、パリサイ人とは違う気持ちで居りました。

それにしても・・・何で取税人は、上の絵のように、悲しそうな顔をして歩いとったんでしょう。

実は、「取税人」は、当時のローマ帝国のもとで、税金を取り立てとった人らぁでね。

ユダヤの地は、ローマ帝国の支配下にあったさかい、

彼らがユダヤ人でありながらも、異国の支配者のために働くような存在でした。

取税人の中では、自分の取り分を多く得るために、余分に税を取り立てたりする者も居ったりとか。

また、人々を騙した上で、税金を集めとるような者も居ったんやんね。

そのため、ユダヤ社会ん中で「裏切り者」「罪人」と見なされてて、激しい嫌われとったんですな。

皆が皆そうやなかったんやろけど、取税人は、それが悪い事や、いうんを分かっとったんやね。

「私は、こういう者だから、人々から嫌われてるんです。時には集めた税金を自分の金として使ってしまう事もあるんだから。そんな私は、神様の御前に立てる資格なんて、ありません。」

たぶん、この絵に描いてある取税人は、そう思とったんでしょうね。

 

 

  門で祈る二人

二人は、神様を礼拝する神殿に辿り着きました。

パリサイ人は胸を張って・・・、取税人は悲しそうに下を向いて・・・、門の中に入りました。

最初は、パリサイ人が、こんなふうに神様に祈りをささげてます。

「神様。私は、他の人みたいに悪事を働くような者でないことを感謝します。

また、ここに居る取税人のような人間でないことを感謝します。

私は、週に2回の断食をして、いつも収入の10分の1をささげております。神様への祈りも絶やした事がありません。」

何か聞いとったら・・・まるで自分のしとる事の自慢ばっかりしとるような感じがしませんか。

 

 

で、今度は、神殿の別の場所で、取税人が神様に祈りをささげてます。

こんな卑しい私なんか、神様の居られる天国なんて堂々と見上げる事も出来ない・・・。

取税人は、そんな思いで祈ってます。

 

「神様。どうか罪人の私をあわれんでください」

取税人は、遠く離れて立って・・・自分の胸を叩きながら、そう神様に祈ったんやんね。

 

皆さんは、イエス様が素晴らしいって言うてくださったんは、どっちの祈りやったと思いますか。

そう! 素晴らしいって認められたんは、少しも立派やない取税人の祈りでした。

私は立派な人間や言うて自慢しとったパリサイ人やないんですよ。

神様とイエス様は、どんなに自分が神様の前で立派な働きをしとるか・・・いう事より、

素直に自分の罪を認めて、『神様。どうか罪人の私をあわれんでください。』って言えるか如何か。

それを、何よりも大切にしとられるんやないかと思うんやんね。

 

 

  自らに置き換えて考えてみよう

こんな御言葉があります。いくつか、一緒に読んでみましょか。

今回のたとえ話では、高慢な者を戒めて、謙遜になることを勧めとんですよね。

他の人が信仰生活の外面を見て、いかにも忠実で立派なように見える、表面的なこと。

それとは逆に、外からは見えにくいけど、謙遜な思いで、各々が神様に向き合うとるか如何か。

あなた様にとって、大切なことは、どっちやと思われるでしょうか。

 

さっきのパリサイ人の祈りの例は、私に置き換えると・・・こんな祈りになると思うんです。

これって、『自分は、こんだけ頑張っとんやで。凄いやろ』って、威張った感じの祈りですよね。

イエス様は、パリサイ人を厳しく批判されてることが、ようけあったんですって。

それは、外面的な形式を守ることばっかりに囚われて、神の前にへりくだる心を失っとったから。

パリサイ人の信仰は「正しさ」を追い求めるだけで、他者を見下して、神様の愛から遠ざかってた。

そういうことなんやんね。

 

 

じゃあ、逆の場合も考えてみましょか。

取税人のように、神様の前に罪深ぁて弱いと感じる自分を顧みて祈ると、こうなります。

さっきのたとえの「取税人の祈り」では・・・、

彼が遠くに立って、神様の前で深く頭を垂れて、自分の胸を打って、こう祈ってましたよね。

「神様。どうか罪人の私をあわれんでください」って。

そこでは、他人を見下すことも、自分自身の正しさを誇ることも、一切しとらんのやんね。

ただ、神様の前で自らの罪を認めて『赦してください』って願うとる、そんな姿があるだけです。

 

 

  まとめに入ります

ただ、今回のお話で私が言いたいんはね・・・。

そうやで言うて、パリサイ人が威張りん坊の自慢しぃの悪者で、取税人は、その逆の善人やと。

そういう意味ではないってことなんですよ。

大事なんは、神様の前に出る時の態度が、それぞれの人にとって如何なんか、っていうこと。

神様が見とられるんは、良い行ないをしとるでとか、形式にある外面的な良さではないんやんね。

パリサイ人の言う、収入の10分の1をささげてること・週に2度の断食は、確かに、忠実な姿です。

聞いてると、確かに『凄い・ようやるな・立派やな』とも感じますよね。

でも、それは外から見える良い行ないであって、その心の内側が如何なんかってことや思うんです。

何よりも、神様の御前に、正直さと謙遜さをもって歩んでいけとるか。

そのことのほうが、ずっと大切やってことなんやんね。

 

私らぁ自身も、日常生活ん中で、しばしば考えてしまうことが、あるんやないですかね。

「私の考えは誰よりも正しい」「私は〇〇さんより、ずっとマシや。」とかって。

私自身も、日々、こうして通信ん中で聖書の話を書いとる者ですけど、結局は罪人やさかい、

そういうふうに思てしもたり、とある人間を批判してしまう時も、あるんですよ。

でも、神様の前で正しい者やって言われるんは・・・、

自分自身の正しさを誇ったり威張ったりする者やなしに、自分の罪・過ちを自覚する者なんやんね。

 

 

  今週の祈り

では、最後のお祈りの前に、お話のまとめとして、この曲をお送りします。

今回のテーマを、オリジナルゴスペルソングとして紹介してる『この人を見よ』です。

どうぞ、お聴きください。

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天のおとうさま。今朝も、あなたの尊い御言葉を頂いたことを、心から感謝いたします。

神様。私たちだけの力では出来ないことでも、あなたが共に居てくださるなら、何でも出来ます。

今、私たち一人ひとりの心を静め、あなたの御前に罪を悔い改め、謙遜な者とならせてください。

事柄が成功した時でも、自分の力ではなく、全てが、あなたの恵みと祝福であることを忘れない。

そのような心を持てる者としてください。

他の人を自分よりも優れた者と思い、あなたへの愛と、人々への奉仕の心を以て歩ませてください。

私たちは、弱さのゆえに、すぐ『あの者よりもマシだ』と、比較したり非難したりしてしまいます。

しかし、誰かを裁く前に、自分の心を省みることの出来る、正しい知恵をお与えください。

イエス様のお名前によって、お祈りいたします。アーメン。