岩手の 山奥に いらしたという
「タイマグラの ばあちゃん」の話を 聴いた。
ばあちゃんの 保存食の ひとつに、
小さかったり 欠けたような じゃが芋も、川に さらして アクを 抜き
冬に 吊るして 凍らせたものを、また 粉に して、それを 湯で 練り上げ
すいとんの ようにして 美味しい 汁を こしらえるものが あったそうだ。
その 手間ひまを
「せっかく芋として 出来てきたんだから、食べてやらないと 痛ましいから。
痛ましいから 作るの」
と、ばあちゃんは 言ってたそうだ。
痛ましい。って ほんとうだなぁ。と
その ココロ が 響いた。
。。。
カタカムナの 潜在アワ量、人の器、と いうのは、ある意味
「思い遣りの 届く距離」のことだ。と 思っている。
最近、友だちと 話していて、私は 自分の「思いやれる 距離」のことを 考えていた。
私は 人に 対して、想像力が 働かない、自分の ことしか 考えられずに サヌキが 行き過ぎる 側面を
小学校の 頃から 先生に 諭されたり 気づいたりして、いつも その 距離が 足りない、と 思ってきた。
今も、感知できる 範囲と 出来ない 範囲とに 差が ありすぎる 自覚が あるから
どうしても、そのようなことに ずっと 関心が あるのだ と思う。
もし 世界平和を 祈れたとしても
もし 宇宙真理を 語れたとしても
小さな芋を 活かしてやるために
寒い冬の 手間ひまを かけられるだろうか。
誰が 見ていても 見ていなくても、川へ運んで 雪に さらして 石うすで 粉に して
マの ココロに 照らし合わせて、そうせずには おられない 何かが 湧くだろうか。
。。。
骨が ある、筋が 通る
実(じつ)の ある
重みが ある、深みが ある
とは どういうことか、も ずっと 心に ある。
それは カンでは 分かっても、いざ 迷うときに
違いは 言葉として 定義できるものだろうかと、探究し続けていたりする。
なぜ 深みが そなわるのか。
反対に、なぜ 深まらずに、浅瀬に とどまってしまうのか を 考えたとき
突き詰める チカラが 潜在の アワ であり 生命力 そのものだ、と思った。
何か、これは 違うかもしれない、と 感受したとき
渦の メグリを 逆に 向けるのには、相当な チカラが 要る。
サヌキ の、アタマ、が 良いことを
カタカムナ では 危ういこと、と とらえる。
「アタマ を カシラ に」出来ていないと
アタマ が 良ければ 良いほどに、つい 損得で 考えてしまったり
何より その 正当化が 上手くなる。
これは あまりに 恐ろしいから、とても とても、気を つけていて
夫婦や 家族のことで 現象を はかったり
たくさんの 師匠を 頼んで、ごまかしていないか、見定めてもらうように している。
他の ことでなく、ココロ に ふれる 仕事 は そういうものだから、終わりは ない、と 何となく 思っている。
見えない世界の 見極めは 難しい。
瞬時に マ が 差し、移り変わる。
突き詰める 体力、根気が ないと、根性が ないと
最後の ところで、ねじ曲げてしまう。
途中までが 真っ当で
最後の 最後に ヒョイ、と ねじ曲げられるのが
いちばん 判断しにくく、抜け出しにくくもなる 渦だ。
判断、行動の サヌキ は 男でも 女でも、
その人の アワ から 生まれる。
アワの量は、愛の量だ。と 思えば
それを 養っていくしかない。
タイマグラの ばあちゃんが
やっぱり あわのみち は 果てしない、ことを
また 思い出させてくれた。