降りてきた言葉
自転車に乗って仕事へ向かう途中、
ふと、言葉が降りてくることがあります。
最近、キャッチした言葉が
「美の基準」そして「在るべき場所」
基準を知らなければ、
どこへ向かって整えたらいいのだろう?
そんな問いが、同時に浮かびました。
人間の骨格でできる動きは、世界共通です。
関節を使いこなすときに働く筋肉も、
実は決まっています。
そしてその筋肉が、無理なく、
機能的に働いている身体を見たとき
私たちは思わず「美しい」と感じる。
それは好みではなく、
法則性を感じ取っているからだと、
私は思っています。
人は本来、
黄金比や調和を美しいと感じる感覚を
ちゃんと備えている。
だから
整ったものを見ると、
身体も、思考も、呼吸さえも
自然と整っていく。
けれど最近、
少し違和感を覚えることが増えました。
歪んだ状態に
「美しい」「かっこいい」という言葉が添えられ、
それを繰り返し目にする機会が、とても多い。
雰囲気がある。
モードっぽい。
アンニュイ。
それは世界観や個性を演出するのには
とても役立つ。
ただしそれは骨格として
ニュートラスポジションではないことを
覚えておく必要がある。
そこを混同すると
本来の基準が、少しずつ曖昧になってしまう。
そんな気がしています。
治療家さんやセラピストさんのお客様から、
よくこんな質問を受けます。
「この人も綺麗に見えるけれど…
これって、正しいんでしょうか?」
その問いの奥には、
自分の感覚を信じきれなくなっている感じが、
静かに滲んでいるように思うのです。
街を歩けば、
姿勢の崩れた人が当たり前のように目に入る。
私たちのミラーニューロンは
見ている動きを、そのまま学習します。
「朱に交われば赤くなる」
気づかないうちに、
基準そのものがズレていくのは
とても自然なことなのかもしれません。
だからこそ大切なのが、
戻す場所を知っていること。
時計が磁気でズレた時間を
定期的に修正するように、
私たちの身体も、
「本来ここだよ」という場所へ
チューニングし直す必要がある。
私が考える「身体を整える」ということは、
痩せているとか、
肉がついているかではありません。
どこに戻すことを「整う」とするのか
その美の基準を、
自分の中にきちんと持っているかどうか。
私は、どんな体型であっても
まずは関節を見ています。
戻る場所がわかれば、
筋肉はちゃんと応えてくれるから。
強く鍛えなくてもいい。
骨を戻し、筋肉が頑張り続けないと
保てない姿勢をやめるだけでよい。
「楽な姿勢と思っているその姿勢、本当に楽?」
「それ、本当に自然?」
そんな問いが、
静かに心と身体に届けばいい。
そうやって
同志が、また一人、増えていく。
私は、そんな循環の中で
今日もカラダと向き合っています。

