はろー、もっちーです!
小6娘が平和学習として
市から派遣され
広島に行くことになりました。
その説明会の日。
被爆者との対話を長年続けている桐谷多恵子准教授の基調講演が、心に残ったのでシェアします。
桐谷先生の人生を貫く「想い」が会場に響き、泣いている人もいました。
*****
桐谷先生は長崎の被爆3世。
桐谷先生のお母様は被爆2世。
お母様は自分の経験を、決して話さなかったそうです。
話さなかったのではなく、話せなかったと、後に語られていたそう。
戦後、被爆者はひどい差別を受けていました。
特に関東での差別は激しかったそうです。
きっとお母様は、この差別を経験されていたのでしょう。
銭湯には「放射能、お断り」との貼り紙がされ、お母様は被爆者であることを理由に、お相手の父に結婚を反対されていました。
その理由は「血が汚れる」からと。
お相手である桐谷先生のお父様は、実父の反対を押し切り、お母様とご結婚されて、桐谷先生が生まれました。
桐谷先生は、10歳のときに自分が被爆3世であることを知らされ、自分の親戚に早く亡くなる人が多い理由はそれだったのかと、思いあたったそうです。
そして、17歳のとき、病院で一人で亡くなった被爆1世の祖母が亡くなる前の数カ月で書き記した日記を、お父様から渡されたそうです。
被爆3世の桐谷先生ですが、大学院生の頃に原因不明の体調不良で、40度の高熱が2週間以上続き、入院して、車椅子の生活を送られていたとのこと。
そのときに、「血が汚れる」という父方の祖父の言葉を、自分が証明してしまい、「申し訳ない」と思ったそうです。
体調不良と被爆との因果関係は証明されていないそうですが、親戚にも似た症状の方がいらっしゃるとのこと。
先生が原爆について「三世代続く、暴力」と表現されていたことが印象的でした。
桐谷先生が後に出会い、長い親交を続けている被爆者の切明千枝子さん(96)も、生き延びてしまい「申し訳ない」と語っていました。
切明さんは、爆心地近くで被爆した多くの友人を手当し続け、でもその甲斐もなく次々と凄惨な死を迎えて行くのを目の当たりにするというご経験をされています。
(被爆当時の描写が続くため、苦手な方は読まないでくださいね)
被爆したとき、切明さんも頭を切るなど重傷を負い、手当てしてもらおうと、学校まで戻ったら、私の長男と同じ14歳くらいの切明さんの後輩たちが、もっと爆心地の近くで被爆していて、「裏か表かわからない」ほどの大火傷で、痛い痛いと学校まで歩いて帰ってきたそうです。
切明さんは、自分の手当てをすることもなく、後輩たちの手当てをすることになり、家庭科室のテーブルに寝かしましたが、そこでできたことは家庭科室にあったサラダ油を塗るくらいだったそう。
その甲斐なく後輩たちは、お父さん、お母さん、痛いよと口にしながら、次々と死んでしまい、夏場で遺体を置いておけないため、火葬を手伝うことになりました。
穴を掘って火葬していると、パチっと音がして体が飛び跳ねていて、びっくりしていたら「見るな」と先生に言われたけど、体が固まってしまって動けず見続けていたそうです。燃えきって骨になったときにやっと、涙が出てきたとのこと。
そして、その骨は、桜色できれいだったと。小指と喉仏に名前をつけておき、探しに来たご両親が見つけて泣いていたと。そう語ってくれたそうです。
(被爆当時の描写はここまでです)
時おり涙ぐみながら、この切明さんのお話を伝える桐谷先生の語りは、文字で読むよりも、何倍も心に深く刺さるものでした。
語り部の存在の貴重さを実感しました。
桐谷先生は、講演の初めに子供たちに、広島と長崎への派遣を通じて「自分の問いを見つけてほしい」と言っていました。
そしてその問いの答えを見つけたら、語り継いでいってほしいと。
私は親として講演を聞いていましたが、被害者が「申し訳ない」と感じ続けてしまうのはなぜか?という問いを自分に課しました。
自分が生きていることを、「申し訳ない」と思う、そんな経験は、私にはありません。
罪のない人が突然の暴力を受けて、「申し訳ない」と思うなんておかしいと、第三者としては思います。
だけど、私も同じ経験をしたらきっと、「申し訳ない」と思うだろうと。
それは、なぜなのか?
*****
小6の娘は
私の本棚にあった
『この世界の片隅に』を読んで
戦争のことを知り
小5の国語でならった
『たずねびと』を読んで
主人公に自分を重ね
広島につながりました。
『たずねびと』の主人公は
偶然にも娘と同じ名前。
『たずねびと』は
誰も迎えに来なかった
アヤちゃんを
現代のアヤちゃんが
探す物語です。
桐谷先生は、原爆投下後
遺児になった子供が多くいたはず
でも、その声を集めようとしても
集められない
消えてしまった
と語ります。
「歴史は強者により綴られる」
「弱者の声を残したいけど記録すらない」
との言葉が印象に残りました。
私が中学生くらいの頃、
毎年8月に特集される
戦争番組を見ながら
祖父に戦時中のことを聞いても
祖父は目を閉じて
言葉を濁していました。
「おじいちゃん、
言いたくなさそう・・・」
と察して、それ以上は聞けず。
その記憶は私に
受け継がれませんでした。
でも、そこに確かに
何かがあったことは
受け継がれたのです。
だから私は
『この世界の片隅に』や
『たずねびと』を
娘に受け継ぎたくなりました。
娘が広島で何を見て、何を感じてくるのか。
そしてまた、次の世代に何を継いでくれるのか。
今まで「平和」は私にとって、何もしなくてもそこにあるものでした。
でも、それは実は、意識しないでいると、途切れやすいものなのかもしれない。
一人ひとりの実感を、想いを持って語り継ぐことが、小さく長く平和をつなげていくことにつながるのかなと思いました。
(祈る女性のような雲 8月6日 早朝に撮影)
お読みいただき、
ありがとうございました!
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