昭和と言う年号がつく時代はまだまだ人とのつながり、親戚付き合い、近所付き合いが盛んであった。
冠婚葬祭と言えば、皆が協力し合って作業を進めていた。
最近では近所付き合いだけでなく、親戚付き合いも昔ほど濃くなくなってきたように思う。
例えば葬儀や法事は自宅ではなく、ホールでやって、宿泊もホテルでするとか。
遠い親類がいれば長い休みの日に泊りがけで行く。それが旅行だった。
でも今は旅行会社のパック旅行や家族で好きなところへ行くことが旅行。
いい面もあるが、大変な面もあるから時代が簡略化させていったのであろうか。
昔は年頃の人がいれば、「いい人いてるんやけど」と見合い話が持ち込まれていた。それが日常であった。
あまりいい話でもないが、配偶者と死別などしてもしばらくすると、「まだ若いから考えてみなはれ」と再婚者やちょっと年を召したお相手の見合い話が持ち込まれたものだ。
しかしいつの間にかそういうものもなくなり、自然な出会いがない人は、結婚相談所へ行ったりして婚活しなければならなくなった。
だから晩婚化が進み、おひとりさまが増えていったのだと思う。
そして核家族化が進んだせいか、近頃では終活も行われるようになった。
かつては同居が多く、子供が親の面倒を見るものとされていたから必要がなかったのだろう。
それにその家その家のやり方があるのでそれに沿ってしてゆくものだったのだと思う。
私は祖父母のいない家庭で育ったため詳しくは分からないのだが。
終活とは人生の終わりに向けての活動で、老化や病気などで判断能力が亡くなる前に延命治療の方針や施設に入るかいなかなどを決めておく。身辺整理をしておく。墓や葬儀のことを手配。死後、財産、仕事、持ち物、契約しているものの解除、データ削除などどうするか、誰に依頼するかを決める、などなど。決めておいたりすることである。
エンディングノートなるものも売っている。
そういうことは身寄りがない人、高齢者がすることだとばかり思っていたが、アラフォーの人たちも結構活動をしていてびっくりした。
おひとりさまなのでいざというときのためにという人。既婚者だが家族と不仲で話もほとんどしないのでいざというときに自分の意図しない施設に入れられたくないので、自分で探して説明会にも言ったという人。
・・・でも、すごく分かる!
私も具合が悪く、これは危ないかっもなあと感じた時、自分の持ち物は整理して思い切ってたくさん処分した。いざというときはあれとこれをする。誰と誰に連絡しておく・・・と頭でシュミレーション。
いよいよというときは、身内に迷惑をかけないよう自分で病院とか施設に入る手続きを早めにしよう、とまで考えた。
これをきちんと書面に残して動き出せば本格的な終活なんだなあと思うと遠いようで近いなあと思う。
死も終活も。
葬儀の生前契約のトラブル、パック料金のトラブルが最近多いとか。
うちの身内も某葬儀社で積み立てをしていたけれど、家族葬にしたのに積立金が多いからと必要以上に豪華な棺桶や花を手配されてゴージャスにされ、価格もそれなりにお高くてガビーンとなったことが。
人の死は突然でバタバタするものである。そこにつけこんでドサクサに紛れていらんことをされたのだ。
早くしないと間に合いませんよ~、と焦らせるし。
気が強い人ならそこで喧嘩になるかも。しかし普通の神経なら、身内の死というダメージもあるのでハイハイと従うしかないみたいで。話を聞いてみれば葬儀に不満を持つ人って結構いるものだ。
葬儀もこまごました用事が多々ある。
血の濃い身内なら、悲しいのになんでこんな働かなあかんの?泣くひまもないやんか、ってな感じだ。
もっと簡単でも良いかもしれない。
私は今は無宗教だし、死ぬときは一人だし、なーんも無しで斎場でお世話になったら、後はお墓には入れずに散骨してほしい。
私の尊敬する作家も亡きあと、セスナで空から海へ散骨された。
あの人はもういない。けれど自然に帰ってどこかにいる。そう思っている。
だからそれからは悲しいと思わないことにした。
人に迷惑をかけないように死ぬる、それも一仕事になる世知辛い世の中である。
それも時代の流れだから仕方がないのだろうか。
しかしよくよく考えると終活ってアラフォーより上にだけ存在する概念化もしれないという気がしないでもない。
今の若い人って、先々の事をあまり考えてなさそうな感じもする。
自分が中心っていうか。まあ、個人個人によるだろうけれど。
終活?なにそれ?死んだあとなんてどうでもいいじゃん?マジうぜ~、みたいな感じか。
自分本位の考えなら、死後なんかどうでもいいのかもしれない。そんなん知らんわ、なんて。
桐島という男子は部活を辞めたが、終活はどないするんやろう・・・な?