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日本哭檄節

サミュエル・ウルマンの『青春』の一節、
≪ 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。≫
こそ、人生の糧(よすが)か・・・!
既に古希寸前に達した今こそ、この言葉に励まされながら、さあ、もうひと踏ん張りしてみるか・・・(笑)

 源兵衛さんと息子の英俊氏が、明治34年1月2日から取り掛かった
『志和池水田用付け替え水路堀切工事・・・』
は、英俊氏の『日当日払い』の謳い文句が功を奏し、更には冬の『農閑期』でも有ったから見る見る近在の農夫&農婦が

『我も我も・・・!』
と押し掛け、中には、遠く鹿児島からも徒党を組んで参加する組も有ったりして、多い時には
『日に580人が働いた・・・!』
と云う記録が有るほどだから、極めて順調に進んだ・・・!

 

 何しろ、この『水流し工法』は、
『人手と水さえ有れば出来る工事・・・』

だから、源兵衛さんの現場差配が冴えて、全体の三分の一程が掘り切られた頃、発注者の『前田正名氏』が、工事の進捗状況を検分するために来宮したところ、その『堀切の幅(≒63m)』を観て眼を丸くした・・・!

(若き頃の前田公・kts-tv.co.jpより拝借)

 

 そして、早速、源兵衛さんに向かって、

『もう少し幅を狭くしろ・・・!』

と注文を付ける・・・!

 

 しかし・・・、この『水流し工法』は、人間の手に依って法面を削ってシラスを降ろして行く工法だから、その作業足場の安全性を確保する為には、『1割5分(=1.0:0.15≒81.5度)』の勾配は必要な訳で、これ以上勾配を立てると法面(=崖)で作業する『男衆』はかなり難儀するし、その分危険度が増すから、自然工期も永く為る・・・!

 

 それに、この『シラス土壌』は雨に弱いから、若し崩壊が起きた時などの為には、そこを補修管理する側道も無ければ困るから、

『どうしても、これだけの幅は必要なのだ・・・!』

と、その辺りの事情(=理論)を懇々と説明する源兵衛さんに、前田公は、一刻も早く水を通し、自分の『前田用水』を通水させ、谷頭を開拓させたい一心から、

『要は、志和池に水が通れば善いのだろうが・・・!』
と云い放ち、

『狭くすれば掘り出す土量が少なく為って、工期は短く為るしその分、工費も安く為る・・・!』

と云う経済的な面からの主張を唱えて譲らず、終いには、生来の癇癪を起し、
『源兵衛はワシの云うことを聴かんからクビ(=解雇)じゃ・・・!』

と云い放ちその場で源兵衛父子を解雇し、自分は東京へと引き上げる為に鹿児島の港へと発ってしまうのだ・・・!

 源兵衛父子にしてみれば、東京で、

『工法については、前田家は一切口を出さない・・・!』

と云う言質を取って掛かった工事を、僅か2カ月ほどで約束を反故にされたのだから堪ったモノでは無かったが、『クビ』と云われた以上、

『後は、識ったことか・・・!』

と云う憤りで現場を去るしか無かったが、その騒ぎを聴き着けた地元の世話役の数人が、
『ソリャア、前田氏も短慮に過ぎる・・・!』

と慌て、直ぐに二人が前田氏を追い駆け、鹿児島港で船を待つ前田氏に追い着き

『現場は、源兵衛さんが居なければ進まないし、このままでは、谷頭までの水は通せないからこれまでの苦労が全部無駄に為る・・・!』
との再説得に及び、この説得に、前田氏も渋々応じ、

『出来るだけ掘り幅は狭くするように・・・!』

との注文を付けて、結果、また源兵衛さん父子が陣頭指揮を執って工事が再開されることと為った・・・!

 

 しかし・・・、結果として、掘り幅は当初の法面角度より『3分』狭くしたため、最後の方では作業側道の幅が取れなく為り、水流し工法の命で有る『流し水路』も取れなく為って、削り落した土砂を『トロッコ』に積んで流し水路まで運ばなければ為らなく為り、結果、工事費が『約1,000円(≒現・2~3千万円)』超過し、工期も1カ月永く懸って、

『やっと通水に漕ぎ着けた・・・!』

と云う顛末に至るのだ・・・!

 この
『管理側道無しの用水路・・・』

を眼にした志和池側の人々は、当初
『約束が違う・・・!』

と抗議をしたが、それでも、前年まで毎年繰り返して来た『安永(=現・庄内)川下流井関からの取水と水路管理』に比べれば遥かに有難い通水だったし、源兵衛さん父子の苦労も見聞して十分識って居たから、これを受け取ることに決め、此処に、源兵衛さんが想い立ち、前田正名と云う資本家が資金(=借金だけど)を投じた

『前田用水路・・・』
も、何とか無事通水の運びと為って、谷頭の茅原野(≒500町歩)の開田が叶うことに為ったと云う訳だが、前田氏は、当初、源兵衛さんから水路開削の権利を譲り買う時、

『水路完成時には、谷頭の水田8町歩を慰労の報酬として与え、その水田への引水は、永代無料とする・・・!』

とした約束を守ることは無く(=口頭だったらしい?)、源兵衛さんと英俊氏を酷(こ)き使っただけだった訳だ・・・!

 このジジイが、まだ生前の源兵衛さんの曾孫さんからこの話を聴いた時も、このことについては根強く前田家への不信を募らせて居られたような口調だったし、子息英俊氏の生前の回顧にも、

『予の一大失策なり・・・、父上に誠に申す訳無く・・・』

と云う一行を残して居られるほどである・・・!

 

 尤も・・・、こうした前田氏の毀誉褒貶は有っても、この二大水路の完成に、前田氏の莫大な資本投下(=現通貨で凡そ30億円?)が大きく貢献したことは事実で有り、その功を讃える意味で、関之尾から谷頭までの水路に、未だ

『前田用水路・・・』

と云う名が冠せられて居ることが、それを意味して居るのだろう・・・?!

 

 こうして、どうにか通水に漕ぎ着けた谷頭台地までの水路だが、いざ通水してみると、谷頭の住民たちは、永年続けて来た

『怠惰で無気力な生活・・・』

から抜ける意気を現さず、田んぼの開墾には一向励まなかったので、前田氏の

『利水料で資本を取り戻す(=儲ける)・・・!』

と云う目論見が外れてしまったので、途方に暮れた前田氏は明治34年の暮れに、盟友の『石川理紀之助翁』に

『力を貸してくれ・・・!』

と云う懇請の手紙を送り、それを意気に感じた理紀之助翁が、翌35年4月、同志7名を引き連れ谷頭に乗り込み、住民への

『勤労意識改革・・・』

を植え付けて、僅か六カ月で谷頭を一変させる奇跡的功績を挙げたから、あの地にこんな胸像が建って居ると云う訳だ・・・!

 

 

 若き日に、頭を殴られたようなショックで憶え縛られて来たこの一言に、還暦前に想わぬ場所で出会い、そこから遡ってみたら、『前田正名』『三島通庸』と云う同郷人や『坂元源兵衛』と云う隠れた傑人に出会い、一気に惚れ込み、結果、この人が奏でた壮大なドラマに翻弄され続けて居るジジイって訳だ・・・(汗)

 

 こんな駄文に付き合って頂いて居りましたら、ご苦労様でした・・・(謝&拝)