ネットにはとくに、利権によって操作された情報が流れて来るので(最近は、迷惑な映像を消去する❌印のつかないものも流れてきます)、疲れる。
自分が大切に思う本を読んでいるほうがいいな、とも思う。
このブログを書くきっかけは、三浦春馬さん事件だ。春馬さんが、いま、いないことの深刻さを(その後の、何人もの方々も)、考えねばならないと思った。
ハンナ・アーレントという女性がいた。
ナチス官僚のユダヤ人虐殺裁判記を書いたら、親しくしていた人たちも、ハンナの元を離れていった。
人々は、自分とは違った悪人が裁かれることを望んだのだろう。
ハンナの目の前にいた被告は、私は合法的にヒットラーの指示に従っただけだと言う、ひとりの男であった。
自分で考えるということを止めた男が、人間が犯すとは考えがたい虐殺を指示したのである。
誰しもが、自分が考えるという主体を失う時、同じような加害行為をとるのだろう。
人気俳優だった春馬さんが、突然いなくなって、春馬さんのマネジメントをしているなら分かることも公表されず、途中で春馬さんの撮影ができなくなった番組の関係者も、何も語らない。
それは、どう考えても、春馬さんを尊重していないのではないかと思われるできごとだった。
いま、この事件に関して、さまざな意見や動きがあって、つらくなることも多い。
けれど、年少のころから俳優として働いて、何の後ろだてもないのに、持ち前の素養と鍛練で、苦難を越えてきた春馬さんがいる。
いま、春馬さんを応援しないで、誰を応援するのか(子どもの頃に好きだった俳優は、沖雅也)という、気もち。
違った考えの人とは、どこが違うのか、互いを尊重して話し合えばいい。相手を想像せずに傷つけていた時には、あやまりたい。
私の好きな俳句を詠む人に、金子兜太(とうた)という人がいる。彼は、戦争で部下になった東北の若者たちが、次々と殺されるのを目の当たりにして、戦争という悪を実感する。
健康で、気もちがよくて、死ぬはずのない若者が、ただただ殺されてゆく。戦場では、それを止められない。
この、無惨に殺されゆく未来ある若者たちの姿が、私の中で、春馬さんがいないことと重なっていく。
きょうも、笑いあって暮らすはずの、愛おしい人が殺される人間社会であっていいはずがない。
けれど、私たちひとりひとりが、考えたり、感じたりする自由を手ばなして、誰かの指示に従っていけば、次にいのちを失うのは、かけがえのない人や生きものたちなのだ。
人間として生まれ、想像力をもった。
ひとりひとり違う人と出会って、感心したり、違いに驚いたり、新たな視点が開かれたりすることは、とても嬉しい。
人は、暴力に巻き込まれ続けると、自分で感じたり、考えたりすることができなくなってしまう。だからこそ、窮地にあるものを見殺しにしないで生きられるように、助け合って生きていきたい。