昨日、マイコーチに

セッションを受けてきました

その中でコーチからいただいた一言が



「あまねちゃんは自分を知るってことが
キーワードの一つなんだね」 (多分こんな感じ)


そうだなあ

確かに「自分を知る」ことによって

今の自分がいます



これまでも何回か

「実は自分自身のことって、案外分からないもの」

って書いてきました



自分の「何」を知らないか

これがポイントだと考えてます



それは「感情が動くところ」

そして感情が動いたとしても

「見たくないからスルーする」ところ

もう一つ

「自分自身でさえ気がつかないところ」

かなあ

今浮かぶのは



例えば「感情」を

たくさんの扉がある

ボックスと置き換えてみる



嬉しければ「嬉しい」と書かれた扉が開く

悲しければ「悲しい」と書かれた扉が開く

起こる出来事によって

感情の「分類」がつけられた扉が開くのだけど



その「感情の扉」の中には

ただ「嬉しい」だけの感情は入っていない



極端な例を挙げれば

「あの人が、私のしたことを
喜んでくれたから」



「ウレシイ」



という感情が入っていたとする



その開いた扉から

溢れた感情に「成分」があったとしたら

その「ウレシイ」は

どんな成分でできてるだろうか?

と考えてみる



相手のことを想っているのは

もちろんだとしても



これは回りくどい言い方になるけど

「その人に喜ばれない自分は嫌」

または

「その人に喜ばれる自分でなければならない」

という成分が「多く」入っていると



実は自分がしている

「その人に喜んでもらうこと」というのは

「自分」を基準にしていない

「相手」を基準にしている



だから相手に喜ばれる為には

自分がムリをしてでもしようとする

こうなってくるとその行為で

自分を成立させようとする

つまり依存的になってくる



感情に入っている「成分」を知ること

これが自分を知るってことかな、と想います

これは喜怒哀楽すべてに共通する



それでわたしは

ある人に母親を投影していたと

解りました



何故こんなイヤな感情を味わってるのに

離れられないんだろう

それが解らなかったんだけど

ある日突然降ってきた




例えば

「似たような問題が起きる」


「どこの学校や職場に行っても、
何かイヤな人のパターンが同じ」


「恋愛の終わり方がほぼ同じ」



出来事は

数え上げたらキリはないのだけど



自らに問うには

ある程度心に力が必要です



相手が問題なんだと決め付けるのでなく



自分の問題として捉える必要がある



自分の中の

感情の「どの成分」が

そう思わせるのか

そんな出来事を引き起こすのか



孫子の兵法ではないですが



「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」



相手を知る前に

まず「己」を知ること

それには自らに問いかけること

その必要性を感じてます




「自分の中の何が、この気持を感じさせてるんだろう?」




ありがと~ 読んでくれて♥akn♥

ペタしてね   読者登録してね