家の中の縁の下に防空壕が掘ってありました。
家の前の30m道路の歩道端にも少し大きい防空壕がありました。
新大橋の袂には一番大きな防空壕がありました。
1945年3月9日
警戒警報が解除されて
ホッとして寝床に入りました。
もうその頃は寝巻に着替えるなんてことはしていなくて、
みんな一番お気に入りの服をきて寝ていました。
突然
焼夷弾の雨
2歳の妹を背負った母と私は家の中の縁の下の防空壕に飛び込みました。
祖母が防空壕の蓋を閉めて、その上に行李やらなにやら重いものを乗せてしまったので、防空壕の中から蓋があけられません。
物凄く暑くなってきたので、母は必死で叫びました。
「おばあちゃん!開けて!開けて!開けて!」
やっと祖母が荷物をどかして蓋を開けてくれた時
2階の物干し場が焼け崩れて落ちて来る音がしました。
寝たきりの祖父と祖母は逃げることはせず
「私たちはここで死ぬから、お前さんたちは早くお逃げ!」
私たちは二人を見捨てて
歩道端の防空壕へ行くとそこはもう満員。
火と風に追われて
橋の袂の防空壕迄辿り着くと
そこももう満員でした。
橋の真ん中迄きたとき
橋を渡った先はボウボウと燃え盛る火の海
来た道を振り返るとそこも又火の海
立ち往生し
新大橋の真ん中にうずくまり
東京が焼け落ちるのを見ました。
防空壕は役にたたなかった
小学校へ逃げ込んだ人たちはたくさん死んだ
明治座は電気シャッターが壊れて開かなくなり
中に逃げ込んだ人たちは蒸し焼き
着の身着のまま裸足で逃げた3月9日
(正確には3月10日ですが私達の記憶は3月9日)
祖父母は町内会の方々が担架で浜町公園まで運んで下さって
命拾いをしましたが、寝たきりだった祖父は3ヶ月後に亡くなりました。
バカバカバカバカ![]()
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