親が強すぎると娘は辛いね | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

「戦は他に任せよ 汝幸あるハプスブルグは婚姻せよ」

 

こうした言葉を家訓にかかげて政略結婚によって栄えたハプスブルグ家は、欧州各国の歴史700年に渡って領土を広げて栄えてきた。

 

その中において、多産であり女としてもその名を領土に広めた女性マリア・テレジア・・・・彼女は23歳で帝国を継承。

夫であるフランツ・シュテファンとは6歳で出会い、自分の思いを遂げて結婚まで至ったのだが、テレジアとは違って夫の方は随分と楽天的で、政治と軍事的能力には欠けている面もあったそうだ。

 

遊び人気質な夫を独占したい思いから、テレジアは静かに彼を見張り、家臣や臣民らにも同様の節制を望み。乱れたウィーンの風紀を正す為に、純潔委員会と監視組織を作り売春婦やその客らを厳しく罰して、多くの民らからは不評を買うこととなる。

そうした事は宮廷内での恋愛や不倫などにも及び、間違った問題はすぐさまテレジアの元へと密告される事もあった。

 

そうして深く愛していた夫がこの世を去る事となったのは、彼女がまだ48歳という年齢の頃でした。

愛する人を失くしてしまった彼女は、その後その嘆きと悲しみから喪服を着用して、夫を偲ぶ日々を送ったといいます。

 

 

実際そこまで愛されていた夫フランツは、彼女の事をどう思っていたのか・・・・。それでも16人もの子供をもうけた事を考えると、よほど相性は良かったのだろうと思いますね。

 

 

フランツの生き方がフランス革命下のフランスにて、2人のM&Aとして描かれたとしたミュージカル「マリーアントワネット」といった物語もあります。

 

私も観劇した事がありますが、この作品ではウィーンから嫁いできたテレジアの娘マリーアントワネットと、実はテレジアの夫フランツがお忍びで通っていた女に産ませたアントワネットの妹という設定のマルグリットとの確執と真実が描かれています。

(フランツにこうした娘がいたかもしれないとした物語です)

 

ふたりが共に父親を同じとする姉妹だと知るのは、物語の後半部分での革命下での事で、堅苦しい宮廷儀礼な生き方をしなければいけなかったアントワネットと、貧しくとも自由で自分の気持ちの思うままに生きるもうひとりのM&Aの姿に、ふたりが心を初めて交わすシーンも描かれています。

 

 

この物語を初めて観た時に、あれ?って思ったことがあってね。

実は同じような物語というか、最後はアントワネットのフェルゼンと関係を持ち、それを条件にアントワネットと入れ替わって彼女を助ける漫画があった事を思い出したの・・・・うーん

 

あしべゆうほさんの「悪魔の花嫁」(デイモスのはなよめ)

 

 

その中の1つの物語として、それは描かれていました。

ここでの二人の女性は、顔が似ていたとした事で入れ替わりをするんだけどね。ミュージカルの物語でも、フランツの浮気が元で生まれた妹の方が、王妃の愛人であったフェルゼンと会話するシーンもあったりもする。

 

さて、16人もの子供をもうけたテレジアだったけれど、始めの言葉通りそれらの子供達の多くは、婚姻を結ばせて国を栄えさせるための道具として、半ば強制的に育てられる事となったのだが、ここで特に有名なのが先ほど出てきた後のフランス王妃となり、フランス革命が起こる原因のひとつともなった。テレジアの末の娘マリーアントワネットの存在。

 

 

しかしそれ以外のプリンセスたちの事は、なかなか知られる事がないんだけれど、テレジアが実際娘たちとどう向き合っていたか・・・・

 

 

彼女は徹底した女帝であり、論理意識と道徳観念が強い人であったことで、意外と娘達に対しても格差的扱いがあったという。

 

彼女の1番のお気に入りであった娘は、マリア・クリスティーネという次女であったといい。ミミと愛称されて誰もがすぐわかるくらいに偏愛されて、破格のわがままも許されていたといいます。

その為に姉妹の中でも唯一恋愛結婚を許されて、ザクセン王家の政治的には何の力も持たないアルベルト公子と結婚して、夫を取り立ててハンガリー総督に抜擢。テレジア死後は彼女の運も傾くも、姉妹の中で唯一幸せな結婚生活を送った娘だったという。

 

それとは対照的に、1番不遇な扱いを受けていたのが長女のマリア・アンナという娘。マリアンナと呼ばれた彼女は、器量も劣る為に母親からも愛されず、人前でも叱責されることもあり、テレジアは極端に彼女を厳しく扱ったといいます。しょんぼり

 

そんな彼女を不幸が襲ったのは、20歳で重病にかかってしまった事。母親からしたら政略結婚にも使えず、女学院の長として片付けられて、後に修道院に入りその一生を独身のままで終える事となった。

彼女は学問に興味を抱いて、学識ある大皇女と呼ばれた。

 

3女であったマリア・エリザベートは、実は姉妹イチの美しさだったそうだが、23歳で天然痘にかかりその後の後遺症で美しさを失うこととなり、その途端にテレジアは彼女に対する愛情と扱いを、まるで手のひらを返すように以後邪険に扱うようになり、長女と同じ運命を辿ることとなったそうだ。

 

そして4女のマリア・アマーリエは、母であるテレジアに恋人との仲を裂かれて、政略結婚でパルマ公爵の元へ嫁がされた不運の娘でもあった。夫は体が弱く知能に劣る人物だったそうだ。

相思相愛であった恋人との間を強制的に引き裂かれて、好きでもない人の元へ嫁がされた彼女は、母親を一生憎み許す事はなかった。

そしてパルマの国政を牛耳事でテレジアに反発を続け、テレジアは困って娘に手紙を書き諫めようとするも、まったく聞く耳を持たずついに諦めるしかなかったテレジアは、母としても親子の関係を絶つまでに至った。真顔

 

そんなアマーリエも、後にフランス革命のあおりを受けて公国を占領されることとなり、ほどなくしてこの世を去ったという。

 

そんな中での末娘であったマリー・アントワネットの教育には、テレジアも他の兄弟姉妹に対する事柄や政治的な事柄に関わり過ぎて、彼女の教育まで手が回らなかったと聞く。

 

その為母親は、必ずしも出来が良いともいえない娘に、一番重要な役割を与えた事を生涯案じる事となった。それは知る人ぞ知る結末となるフランス革命でのブルボン王朝のそして自身の育ったハプスブルグ家の没落に繋がる現実を招く事となった。

 

アントワネットは母テレジアの無邪気さと時に意固地になる面と、父親のフランツの浮ついた楽観的な志向を受け継ぎ、理性的な性格よりも情に動くところがあった。アントワネットだけのせいで革命が起こったわけではないが、本来ならばアントワネットではなくて、テレジアの娘のひとりであったマリア・カロリーネという娘がフランスに嫁ぐ候補となっていたのだ。しかし1歳年上の姉マリア・ヨーゼファの式当日の病死に、急遽身代わりとなってナポリ王フェルディナンドに嫁ぐ事となり、夫となったフェルディナンドが粗野でろくに読み書きもできなかった事で、夫に代わって国政を動かし母親譲りの政治家としての才能を活かし、近代国家に発展する道筋をつけていく事となった。

 

カロリーネはウィーンにてアントワネットと同室で暮らしていたせいで、アントワネット自身もカロリーネの突然の婚姻に、深く寂しさを感じたという。もし初めの通りにアントワネットでなくて、カロリーネがフランスへ嫁いでいたら、もっと母親譲りの才覚でフランス革命を防ぐことにもなったかもしれないと言われている。

 

しかしこのカロリーネは一番仲の良かったアントワネットの死を知ると、フランスと敵対する態度を捕るのだが、後にナポレオンによって国を追われる事となり、亡命に次ぐ亡命後は祖国ウィーンへと戻る事となった。

 

そしてこれも以前書いたことがあるが、ジョゼフィーヌと離婚後のナポレオンが次に選んだ妻とした女性が、実はこのカロリーネの長女の子で孫娘となるマリー・ルイーズであったことで、見事自身の復讐を果たす事にもなったのであった。

何故ならばナポレオンに望まれて妻として迎えられたマリー・ルイーズではあったが、実はナポレオンのその後の人生において、凶運を運んだといわれるのがこのマリー・ルイーズでもあったからだ。

その意味は、ナポレオンの人生の後半を知ればわかる事だ。

 

ちなみにテレジアらが皇女に対してマリアという名をつけるのは、ハプスブルグ家では曾祖父の時代からの決まり事だったそうだ。マリーアントワネットもウィーンではマリア・アントーニアと名乗っていた。

 

ここでは生きていた皇女達を、わかりやすくする為に長女からずっと次女とか5女とか表してきたが、実際はもっと多い皇女達が生まれていて、マリア・カロリーネは正確には10女であり、アントワネットは11女となる。パルマに嫁いだテレジアに反発をした娘は6女であり、長女と紹介した娘は正確には次女。

本当の長女は3歳で病死をしている。そして3女もやはり1歳で病死。4女が1番母親に愛されて自由恋愛で結婚したマリア・クリスティーネ。5女の娘はフランス国王ルイ15世の再婚相手に決まりかけた過去があり、後に修道院院長になっている。

 

他にも出産直後に病死したという7女

12歳で病死した8女など、やはり昔の事でもあり多産でもあったテレジアでも、16人の子供の中には幼くして亡くなる子供達もいたようだ。

(今回は皇女を中心に紹介しました。)

 

当時のヨーロッパでは、オーストリアのテレジア・・・ロシアのエリザヴェータそしてフランスのポンパドゥールと、3枚のペチコート作戦と言われた反プロイセン同盟を結成した話も有名だが、実はフランスへアントワネットの輿入れを強く後押ししていたと言われているのが、ルイ15世のお気に入りと言われたポンパドゥールであったそうだ。

 

「ベルサイユのばら」でも有名なデュバリー夫人は、逆にアントワネットを推す事はぜずに・・・それ故に後の嫌がらせもあったようだった。

 

そして余談だが、アントワネットと1番仲の良かったという姉カロリーネの子の内のひとりは、オルレアン公爵・・・後のフランス王となったルイ・フィリップと結婚をした。クローバー

 

いやぁ~ん、懐かしい写真が出てきた。(笑)意外に金髪似合うと言われる私。(笑)

 

 

そう、今日はフランス革命である

7月14日!

 

 

今年はアニメ映画「ベルサイユのばら」が久しぶりに公開された事で、新参者を含めた今時のファンらも賑やかに騒いでいるが、古参なファンは静かに送りたいと思う。赤薔薇

 

 

 

この歌詞を見ていたら、こんな怖い歌詞を今も歌っているの?って思ってしまったんだが、そうなれば世界中の国歌というものも気になってきた。(笑)