滑り出しから・・・・今年の大河ドラマは、とんでもない冒険をしてしまっているようだ。( ̄▽ ̄;) 巷でも溢れる 「方言の壁!」
毎回食い入る様に見ている私だが、やっぱりどうしてもわからんのだよ。(苦笑) 私の国である高知県がある 「四国」 ・・・・。 四つの国と言うだけに、4県の国が隣り合わせで成り立っているんだけど、これが4県とも言葉のイントネーションや方言が違う。
だけどさぁ~~、九州ほど言葉が難解なわけでもない。
九州に住んで10年! 四国でも九州人との付き合いはあったが、
まぁ~これが、本気で方言で話し始めたら、九州というものはまったくちんぷんかんぷん・・・・特に鹿児島や宮崎県となると、とんでもなく
わかんねぇーーーし!!!!
そんな難解な鹿児島は薩摩弁を、惜しげもなく使いこなして、今作品である 「西郷どん」 は、これからも毎週放送される。・・・・・・
「えっ!ちと待てよ・・・・。」 方言をこれだけ使うという事は、まさかこの先出てくる 土佐 長州 長崎 などの方々も、 強烈方言人 なんだろか? ( ̄m ̄〃)ぷぷっ!
方言だけでも難解な問題なのに、これまた巷から聞こえてくる物語の筋と登場人物が、理解しにくいなる問題!
こりゃ困った・・・・(;´∀`)
確かに、前回のお話しでは世に有名な 「お由羅騒動」 のはずなのに、物語があまりにも進みすぎて、そのスピードに戸惑うばかり。
これじゃ、歴史が好きな人間はいいが、歴史をよくわからない方には、多分難解すぎて大変だと思う。 実は前回の放送では、とても大事な事柄がベースとなっていたんですよ。(´▽`*)アハハ
で・・・・そのあらましを、ちくとわかりやすくご紹介したいと思います。
こちらのお写真は、鹿児島城内にて唯一撮影された現存する・・・・
島津斉彬公の写真。 撮影は日本人によるもののようです。
「西郷どん」の第1回目から、彼の登場するシーンは・・・・なかなか印象的なものでした。 外国から日の本を守らねば・・・・・。そうゆうことから斉彬は、大筒をぶちかましてましたね。
そして、何につけても実の親子なのに、どうしてそうまでと言うほどに、斉彬とその父・ 斉興 (なりおき) との確執が、毎回描かれています。
それにはまず、その斉興の祖父・・・・重豪の事からお話ししましょう。
斉興の父 斉宣 は、実父・・・つまり斉興にとっては、祖父になるのだけれど、この祖父 重豪 (しげひで) が1787年・43歳という年で隠居して、斉宣がわずか15歳にて、薩摩島津家を継ぐこととなりました。 しかしまだ15歳という若さからか、重豪はその後も「政務介助」という名目で、寛政3年 1791年まで実験を握ったままでした。
この重豪という方は、大変な西洋かぶれだったようで、当時の長崎にある歴代オランダ商館長とも親しく付き合いがあり、頻繁に長崎へ出向いては、西洋文化のあらゆる知識を吸収したり、23歳の時には自ら編集に携わった中国語学書の「南山俗語考」を始め、その後も多くの書籍を刊行。 1773年・藩校や「演武館」を創設して人材育成を図り、翌年には・・・「医学院」を作って研究を命じたり、1779年・・・・・
天体観測所である「明時館」を創設。 ここでの研究成果をもとにして、独自の「薩摩暦」を作成。
この明時館が、 「天文館」 とも呼ばれたことから、これがあった場所として、現在の鹿児島市の繁華街には、その名がつけられているのです。 とにかく重豪の知識欲と好奇心は素晴らしくて、こうした行いが藩政改革にも活かされる事もあったが、実はこの方・・・・・当時の薩摩島津家において、とんでもない莫大な借金を作ってしまったのです。
あらゆる事に夢中になるあまりに、そこへかける財政負担が大きくなり、その事をわかっていながらも、あえて改革へと邁進していったのでした。 その負担額は、 500万両 という借金に・・・・・。
これは幕末の薩摩島津家を、危うく滅ぼしてしまうくらいの莫大なもの
当時の彼を知るオランダ商館医 シーボルト は、84歳の彼に会った時に、「65歳ぐらいに見えた。」 と言っているくらいに、80を過ぎても・・・・・江戸と鹿児島を行き来していたとゆうから、とんでもなくバイタリティー溢れるスーパーお爺ちゃんだったようです。 生まれてすぐに母を亡くし、祖母であった 竹姫 に養育されて育ちました。この方は、公家の出であり・・・また5代将軍 綱吉 の養女で薩摩に嫁ぎ。 京生まれで江戸・大奥育ちな姫様の教育のもと、重豪は鹿児島の言葉や習慣などを嫌い。 江戸・上方風にするようにと、度々命令を出していたそうです。
だからって草食系ではなくて、なかなかな行動派であり、優れた改革を目指そうとする。 意欲的な男子として育ったようだ。
さぁ~~て、ここまでくれば薄々もうお分かりかな?
そう、この 島津重豪 さんとは、この方の曾孫として後にこの世に生まれてくる事となる 島津斉彬 ・・・・・。まるで鏡のような生き方に、あまりにもどこか似てしまった二人の人間性に、この先のお由羅騒動と言われた事柄へと、結びついていく物語となるのです。
重豪は子供達の多くを、将軍家御台所や大名家などへと、婿養子として送り込んだり嫁がせたり。 そうして強固なまでの人脈を広げていきました。 まっ、そうしたことは・・・・私の国土佐でも同じで、土佐山内家は子供達との縁戚に、姫君達の多くは 公家 との婚儀をおこなっていました。 「困った時の神頼み!」 島津や山内家以外でも、こうした事柄は長くおこなわれてきたことでした。
将軍家御台所・・・・あるいは、将軍家から正室をもらうなどは、とんでもなく名誉なことでもあるが、その反面とんでもなく迷惑な事柄でもあるのです。 何故かって・・・・・・、そりゃぁ~相手がとんでもなく良い家柄であればあるほどに、輿入れや迎え入れる側としては、それなりの釣り合いのとれた支度をしなければなりません。
大河ドラマ 「篤姫」 でも描かれたように、輿入れの行列は先頭もそうだが、その列の最後尾が見えないくらいの行列と、嫁入り道具などの品々。 相手方に失礼のないようにするにも、莫大な金額が流れたということです。 σ(o'ω'o) 重豪の場合も、彼自身があらゆる事柄に多くの財政をつぎ込んでいた上に、人脈が広がった分、その交際費も半端ないくらいのものだったのです。
こうした父親の行動に、批判的だったのが息子 斉宣 だったのです。彼は薩摩藩の財政状況を把握し、それを危惧していました。
そんな息子の言葉にも、なんと重豪は耳を貸すどころか、斉宣が藩主としてとった行動。 文化4年 1807年・・・・・・
樺山久言 (かばやまひさこと) と 秩父季保 (ちちぶすえやす) を家老に抜擢そして、財政改革に乗り出した事。
徹底的緊縮財政策 という重豪のやってきた事を、真っ向から否定するような行動・・・・・。 それに対しての重豪の怒りは半端なく、なんと自らの息子であり藩主でもある斉宣に対して、反旗を翻し・・・・・
斉宣派の樺山と秩父ら13人に対して切腹を命じ、100人余りの遠島など、厳しい処分を言い渡した。 そしてそれだけに留まらずに、斉宣自身、文化6年 1809年・・・・・彼を隠居させると、今度は孫にあたる 斉興 を家督につけた。 この時斉興は、若い19歳であった。
そして重豪65歳・・・・・、再び政務介助となり実権を握る事となった。
つづく・・・・・・

